世界には「歴史のある文明」と「歴史のない
文明」がある。日本文明は「反中国」をアイ
デンティティとして生まれた。
世界は一定の方向に発展しているのではない。
筋道のない世界に筋道のある物語を与えるのが
歴史だ。「国家」「国民」「国語」といった
概念は、わずかこの一、二世紀の間に生ま
れたものにすぎない…などなど、一見
突飛なようでいて、実は本質を鋭く
ついた歴史の見方・捉え方。目からウロコ
の落ちるような、雄大かつ刺激的な論考である。
「新しい歴史教科書をつくる会」が編纂した
中学教科書に、中国と韓国が強く反発して
いる。今に始まったことではない。これ
までにも、日本の閣僚が中国から「正
しい歴史認識の欠如」を非難されて
辞任に追い込まれることもあった。
しかし、中・韓両国の主張、日本政府の対応、
マスコミの論評を聞いていて、いつも覚える
のは、「正しい歴史認識」とはいったい何
なのかが、一向に見えない欲求不満で
ある。肝心なのは、歴史認識や
史実解釈ではなく、「歴史とはなにか」
ではないのか。そんな基本的な疑問に、
丹念に答えてくれるのが本書である。
著者によれば、歴史は自分の立場を正当化する
「武器」だそうである。国の歴史(正史)には、
本来そういう側面がある。「歴史は文化で
あり、人間の集団によって文化は違う
から、集団ごとに、それぞれ『これ
が歴史だ』というものができる」が、それは
「ちゃんとした歴史」ではない。「いい歴史」を
書こうと思ったら、「善とか悪とかいう道徳的
な価値判断」「功利的な価値判断」は一切
禁物である。しかし、そうした価値判断
を排して書かれた「いい歴史」は
「どの国家にとってもつごうの
悪い」ものにならざるをえない。
そこで思い出すのは、2000年度のノーベル
文学賞を受賞した中国人亡命作家、
高行健(ガオ シンジアン)が「中国の正史」を
批判した言葉である。高は「歴史とは、
イデオロギーを通してではなく、じかに対面
すべきものである」と言った。
本書は、世界文明上の歴史観を、司馬遷
の「現実とかけはなれた『正統』の歴史観」
(中国文明)とヘロドトスの「変化を語る歴史観」
(地中海文明)の2つに分けている。どうやら、
高が「イデオロギーに基づく正史」と批判する
中国の歴史記述は中国の伝統なのである。
それが「いい歴史」かどうかは別にして、
それぞれの国が自分の歴史をどう記述
しようが、他国がとやかくいう筋合
のものではないかもしれない。
しかし、求められるのはやはり「いい歴史」で
ある。だが、「いい歴史」は必ずしも万人を
喜ばせるものではない、と本書は言う。
胸のつかえの下りる本である。
岡田英弘 (著) 歴史とはなにか (文春新書)
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今回も最後までお読みくださり、
ありがとうございました。感謝!