今月は、天才と称された伝説の落語家・立川談志
の下、9年半に及ぶ前座修業を積んだ立川談慶
さんがご登場。談慶さんの修業時代を通して、
教育者としての談志の素顔に迫ります。
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(立川談慶)
将来は人を笑顔にする仕事、落語家に
なりたい─子供の頃から漠然と抱いていた
夢を叶えてくれたのは、天才落語家・立川談志
でした。
忘れもしない落語研究会に所属していた大学時代。
先輩に勧められて立川談志の落語を初めて生で
聞いた時、その達人芸に雷に打たれたような
衝撃を受け、以後私は談志の追っかけに
なったのです。
談志は、饒舌な語り口や枕(本題に入る前の
導入部。花鳥風月をテーマにするのが一般的
だった)で時事問題を語るなど、落語の常識を
覆すスタイルを確立したまさに天才。談志との
出逢いが、私の人生を大きく変えていきました。
大学卒業後、一度は衣料品メーカーに就職。
しかし、落語、談志への思いは断ち切れず、
3年間のサラリーマン生活に別れを告げ、
立川流の門を叩いたのです。
1991年、25歳の時でした。
落語界は身分制度が厳然としており、
「前座」「二つ目」「真打ち」「大看板」、
ご臨終(笑)と階級がありますが、
二つ目で初めて落語家として認められます。
立川流に設けられた「古典落語五十席に歌謡音曲」
という昇進基準を目指す日々が幕を開けました。
前座修行は常に師匠の傍につき、雑用をこなし
ながら合間で稽古を受ける基本無給の生活です。
収入は老人ホームでのボランティア落語会など、
自ら掴んだ仕事で稼ぐしかなく、
現実は想像以上に厳しいものでした。
というのも、立川流は「現実が事実」
「評価は他人が決める」との考えに則り、
結果がすべての完全実力主義。
「努力はバカに恵(あた)えた夢」という談志
の言葉の通り、努力を努力と思い込んでいる
うちは駄目。努力するのは当たり前で、
常にそれ以上を求められました。
ただ、その分、基準をクリアすれば
いつでも昇進できる公平な一門でもありました。
ドジな私は厳格な基準に苦しみ、また、出稼ぎ
に必死で稽古を蔑ろにしていた時期もあり、
通常2~5年で終える前座修行に5年の月日を
費やしていました。
その間、弟弟子である談笑が二つ目に昇進。
この悔しさを糧に、踊りを5曲覚えろと言われ
たら10曲覚える、指示された量の倍をこなし、
芸と向き合い続けました。
気づけば入門して8年。
ここで勝負しなければ先はないと覚悟を決め、
自ら志願して昇進試験の開催が決定しました。
会場に駆けつけてくれた友人や同胞の期待を
背負い、これを逃せばチャンスはないと背水の陣
で臨みました。しかし……
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立川談志の教育者としてのすごさ、珠玉の
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今回も最後までお読みくださり、
ありがとうございました。感謝!