「腐るな」!!「我慢しろ.辛抱しろ.絶対チャンスは来るから」 第 579 号

 プロサッカー選手を志しながら突然の交通

事故で夢を断念

 車椅子バスケットボール選手、指導者として

新しい道を開いてきた京谷和幸さん。

 テレビドラマ「君に捧げるエンブレム」の

モデルともなった京谷さんの歩みの

一端をご紹介します。

───────「今日の注目の人」───

☆ 逆境を乗り越えた先に見えたもの ☆

京谷 和幸
(車椅子バスケットボール
男子日本代表アシスタントコーチ)
     ×
長屋宏和(ヒロレーシング代表)

───────────────────

【長屋】
 京谷さんは車椅子バスケットをされる前は、

プロのサッカー選手として活躍されて

いたんですよね。

 きょうはせっかくですから京谷さんの人生の

歩みをお聞かせくださればと思います。

【京谷】 
 はい。私が生まれ育った北海道室蘭市に室蘭

大谷高校というサッカー強豪校がありまして、

私が小学一年生の時に全国大会で

準優勝したんです。

 その試合をテレビで観たことがサッカーを

始める大きなきっかけになりました。

 それで小学二年でサッカーを始めたのです

が、六年の時にスペインでワールド

カップが開催されましてね。

 その時にドイツ(旧西ドイツ)代表として出場して

いたリトバルスキーのプレーを見て、自分も

そういう舞台でやってみたいなと、プロの

サッカー選手になる夢を持つようになったんです

(中略)

 室蘭大谷には特待生として入ることができ、1年生か

ら10番をつけ、レギュラーとしてプレーしました。

 その翌年には日本ユースとバルセロナオリンピック

の代表候補に選ばれていくのですが、ちょうど

その頃から、日本でもサッカーのプロ化

向けた動きが本格化しまして、自分の

夢が現実味を帯びていきました。

 その後、いろいろとスカウトがあったのですが、

最終的にサッカーの強豪・古河電工への入社

決め、Jリーグが開幕する前の1991年に

プロ契約を結びました。

【長屋】 
 まさにサッカー一筋の人生を歩んでこられた。

【京谷】 
 そうなんですが、そこからは怪我ばっかりで、

なかなか結果が出せなくなったんです。

 それにその頃、現在の妻と婚約をしましてね。

 これからの結婚生活のためにも早く試合に出たい

というプレッシャーや焦りがありました。

 僕を指導してくださっていた岡田武史さんは、

「腐るな」「我慢しろ、辛抱しろ。絶対

チャンスは来るから」といつも声を

掛けてくれていましたが、怪我が

治って試合に出られたと思ったら、

またメンバーから外される。

 それを繰り返しているうちに、もうすべてが

いやになってしまったんですよ

 そういう中で、1993年11月28日の事故の日

を迎えました。実はその日は……

 ※京谷さんが車椅子バスケットを始められた

いきさつ、その後の活躍については

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 『致知』2017年3月号【最新号】

        特集「艱難汝を玉にす」P54

今回も最後までお読みくださり、ありがとう

             ございました。感謝!

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