――健さんは初めての一人旅だったそうですね。
〈美谷島〉
あの年頃の子に一人で
旅をさせるのは冒険ですけれど、
上の子たちも同じ頃に一人旅をしていたので
「健ちゃんも行く?」と聞いたら
「行ってみたい」と。
新幹線がいいかなと思いましたが、家から
羽田が近いので飛行機で行くことになって……。
主人と二人で羽田まで送って行って搭乗口で
「バイバーイ」と手を振ってね。
あの時に握っていた手のぬくもりが
まだ残っているみたいです。
(――その数時間後に事故に……。)
〈美谷島〉
その夜のうちに健の大好きなジュースと
着替えをバッグに入れて、夫や他の遺族と
羽田から現地にバスで向かいました。
夜通し走り、長野の小海というところで
13日の朝刊一面に「五百二十四人、絶望」と
出ていました……。
でも、13歳の川上慶子ちゃんが
助けられたというニュースが伝わってきたので、
私は「健も絶対に生きている。迎えに行って
あげたい」と思いました。
全く偶然ですが、現場にいた
テレビ局のカメラマンの中に
夫の高校の同級生がいたんです。
彼は健のことも知っていて
「登れるから迎えに行ってやれ」と。
そこで「登らせてほしい。
絶対に迷惑かけないから」と
JALの担当者に交渉して、
事故から3日目に4時間かけて
御巣鷹の尾根まで登りました。
山頂にはまだ死臭が漂っていて、
私は持ってきたジュースを残骸にかけて、
「ああ、ここにはもういないんだな」
と確認をして山を下りました。
それからはずっと遺体を探しました。
事故から6日目にやっと体育館で名前を呼ばれて、
健の右手を確認しました。
それを持ち帰って荼毘に付したのですが、
「手だけじゃ野球もできないよな」
と家族みんなが思いました。
だから、その後も毎週、
夫と行って遺体を探しました。
私たちだけでなく、
ほとんどの遺族がそんな感じでした。
(――尾根に登ったご主人様が
遺体の見つかった場所にモミの苗木を
植えられたと聞きました。)
〈美谷島〉
はい。事故から3年後ですね。御巣鷹山は
閉山が11月15日で、冬は登れないんです。
でも、あそこで10歳以下の子供たちが
50人近く亡くなっているから、
みんな一緒にクリスマス会が
できたらいいなという思いで
モミの木を植えたんです。
★美谷島さんのお話は続きます。
35年間活動を続けてきたある時、
ふと聞こえたという健さんからのメッセージ。
親子の愛の深さに涙を禁じ得ません。
本記事のお話に続いて、以下のようなお話を
していただきました。
■心の中に健が入ってきた
■命の大事さを子供たちに伝えたい
■三十五年目に聞こえた「さよなら」
■一日一日を大切に過ごす
美谷島邦子さんへのインタビューは
「致知電子版〈アーカイブ〉」でお読み
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今回も最後までお読みくださり、
ありがとうございました。感謝!