あのとき.自分に何ができたろうかと思います 第1,451号

8月6日は広島に原爆が投下された日です。
広島の平和記念公園で平和祈念式典が開催
されましたが、公園内にある引き取り手が
ない遺骨を納めた原爆供養塔の存在を
ご存じでしょうか。

その原爆供養塔の掃除を40年以上にわたって
続けられたのが被爆者の1人、

佐伯敏子さんです。

日本人として決して忘れてはならない日に
あたって、平和の大切さについて考える
きっかけにしていただければ幸いです。

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(佐伯)
この掃除を私が始めてから、もう40年になる
というわけです。

広島市がこの塔をつくったのが、戦後10年
ほど経ってからでしたから、なるほど40年以上
になるわけです。

そもそも私が原爆供養塔の掃除を始めたのは、
それは昭和20年8月6日にさかのぼります。

その朝、私は広島市から山を1つ越えた田舎の
姉の嫁ぎ先にいました。

敵か味方か、山の上を飛行機が1機飛んできて、
すぐに引き返すのが見えました。

そのときです。山の向こう、広島のほうの空を
異様な光が焦がしたのです。

間もなく大音響がして、熱気を帯びた空気に
包まれました。

気がつくと、広島のほうにもくもくと煙が立ち
のぼっています。

空が曇り、黒い大粒の雨が降ってきました。

「広島がやられた」
 
私は広島に住む家族、母や兄妹たちのことを
思いました。

……その思いに急かされて、私は山を越え、
広島にもどったのです。

そこで見たものの1つひとつは、いまでも鮮明です。
忘れようとして、忘れられるものではありません。

生き地獄。

いいえ、そんな生易しい言葉で表現できるもの
ではありません。

私は家族の姿を求めて歩き回りました。

ふと、死体のように横たわっていた人がむくり
動いて、私の足首をつかみました。

 
私はそれを振り切って進みました。

「助けて」「水を」と動けなくなった人たちの
呼びかける声に耳をふさいで通りすぎました。

どこが道かもわからないままに、死骸を
踏みつけて歩きました。

あのとき、自分に何ができたろうかと思います。
何もできなかったでしょう。
だが、私が助けを求める何人かの人を見捨てた
ことも事実です。

私の抱く後ろめたさとはそのことです。

原爆供養塔には、私が見捨て、無視して通り

すぎた人たちの遺骨が、納まっているかも

しれないのです。

「ごめんなさい」
「すみませんでした」

詫びても詫びても償いきれるものではありません。
だが、習わぬお経を唱えながら、ホウキで掃き、
草を1本1本むしらずにはいられないのです。
そうして、40年以上が過ぎたということです。

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 今回も最後までお読みくださり、

       ありがとうございました。感謝!

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