わが国に資本主義を産み落とし根づかせた栄一、
それを継承し育んだ嫡孫・敬三。その狭間に
あって廃嫡の憂き目にあった篤二。
勤勉と遊蕩の血が織りなす渋沢家の人間模様を
たどることは、拝金思想に冒されるはるか以前
の「忘れられた日本人」の生き生きとした
息吹を伝えることにも重なる。
この一族は、なにゆえに「財なき財閥」
と呼ばれたのか。
なぜ実業家を輩出しなかったのか。いま新た
な資料を得て、大宅賞受賞作家が渋沢家
三代の謎を解き明かす。
私は『旅する巨人』という作品を発表した。
特異な民俗学者として知られる宮本常一
を主人公とした評伝だった。
宮本の生涯を追ううち、もう一人
の巨人が現れた。
それが渋沢栄一の孫で、脇役となっ
た渋沢敬三だった。
渋沢敬三は戦時中に日銀総裁、戦後は大蔵
大臣を歴任した経済人でもあった。
しかし敬三はなによりも、民俗学をはじめ
とする我が国の学問発展に陰徳を重ねつづ
けた類稀なるパトロネージュだった。
もし彼の物心両面にわたる援助がなかっ
たら、民俗学者宮本常一は絶対に
生まれていなかった。
渋沢敬三の魅力は私にとってそれほど
決定的なものだった。
これほど格が大きく、懐の深い人物が
日本人の中にもいたことを、私は
ひそかに誇りに思った。
渋沢栄一は7歳のときから私塾に通い、四書
五経、論語の漢学や知行合一の陽明学の
手ほどきをうけた。
栄一は近代的企業の創設に命を燃やした。
長男の篤二は廃嫡すら覚悟して
放蕩の世界に耽溺した。
そして孫の敬三は学問発展に尽瘁して、
ついに家までつぶした。
事業にしろ遊芸にしろ学問にしろ、自分の
信ずる世界にこれほど真摯に没入して
いさぎよく没落していった一族が、
ほかにいただろうか。
渋沢家三代のおおぶりな健全さとなにも
かも心得た懐の深さは、日本人の精神
からことごとく消え去ってしまった。
渋沢一族が残した最大の遺産。
それは、第一銀行や国立民俗学博物館などの
有形なものではなく、われわれが忘れて
しまった見事な日本人の、三代にわた
る物語だったのではないだろうか。
渋沢栄一は武蔵国の深谷にある藍玉生産を
事業とする裕福な家に生まれた。
その後、倒幕を目指し志士となる。
しかし、ふとしたきっかけで徳川御三卿
である一橋家に仕官する。
そこで一橋(徳川)慶喜に仕える。
一橋家に仕官した時代、栄一は新撰組の
近藤勇や土方歳三、西郷隆盛など、幕末
維新期を彩った錚々たる人物たちの
謦咳に接し、大きな感化を受けている。
栄一は徳川慶喜の弟である昭武に同行して、
パリに行く。
そこで西欧文明に接し、株式会社や銀行制度、
産業事情について学んだ。
その後、大蔵省に入る。
栄一はのちの超人的な女性関係にもみられる
ように、生来マメでタフな男だった。
自分のやるべき仕事は、2日でも3日でも
徹夜してやり遂げる。
身は実業の世界にあって近代化に尽くしながら、
精神においてはあくまで幕臣でありたい。
渋沢栄一という男の面白さと決してゆるが
ない安定感は実はここにある。
そして多くの人々から尊敬を集めた理由も、
またそこにあった。
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今回も最後までお読みくださり、
ありがとうございました。 感謝!