作家の高見順が食道がんを患い入院していた折、
病室の窓から一人の少年が嵐の中で新聞配達
をしている姿を見て作ったという詩がある。
《なにかをおれも配達しているつもりで
今日まで生きてきたのだが
人びとの心になにかを配達するのが
おれの仕事なのだが
この少年のようにひたむきに
おれはなにを配達しているだろうか》
この詩を初めて読んだ時の感動をいまも
忘れない。
その時胸に込み上げたのは、では『致知』は
これまで何を配達してきたのだろうか、
という思いであった。
最近、その答えとなるような手紙をいただいた。
長崎在住の吉村光子さんという女性からである。
その一部を紹介する。
《いまから七十七年余前の一九四五年八月九日、
一発の原爆により現在、長崎平和祈念像が
建立されている場所から僅か十数メートルも
離れていない場所が
当時の橋口町二五四番地で我が家があった場所
で、すぐ前の道下が岡町で川内叔父さんの大きな
家がありましたが、松山町の黒田伯父さんの
家も八千代町の岡本叔母さんの家も駅前の橋本家
も、すべて一瞬の閃光のもと焼き尽くされ跡形
もなく、誰一人にも逢うことさえなく、
その安否さえ知ることができず、
三日三晩飲まず喰わずで尋ねさまよい、
力尽きて鉄道線路によじのぼり
しばらく体をやすめて這うようにして
勤務先の大橋町三菱兵器製作所に戻り、
そこで血まみれになりながら
陣頭指揮をしていられた島田労務課長に逢い、
思わず涙がどっとあふれて何も言えず、
よかったよかった、よく生きていてくれたと
喜ばれて、そのまま受付をまかされ、
九死に一生を得たような気持ちでした。
それからは毎日、わが子はわが夫は
親はと尋ねてくる人ごとに住所氏名の記帳、
夜は怪我人の世話、広い工場の中で、
たった一棟のコンクリートの外壁だけ残った
本館の中ではいまにも息絶えそうな人たちが
ひしめき苦しみと戦っている。
おしっこと泣き叫ぶ女の子に
あわてて洗面器を持っていっても
火傷がひどくてさわることもできない。
目に一杯涙をためて詫びるように
私の手の中へ尿をする。
いいのよいいのよといいながら、
私も泣けてくる》
吉村さんの手紙を読んでいると、その当時の
状況が目の前に蘇ってくるようである。
必死に生きた人の言葉は散文でもそのまま
詩のように心に迫ってくるものがある。
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今回も最後までお読みくださり、
ありがとうございました。感謝!