今回は、『致知』を読み始めるようになって、
お父様の死を受け入れられるようになったと語る、
京都府の福知山公立大学准教授杉岡秀紀さんの
「致知と私」と題する文章をご紹介します。
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雑誌『致知』を教えてくれたのは二人の
「父親」でした。
一人目は実の父親。
父親は私の最も尊敬する人であり、仕事も
趣味も大事にし、家族思いで、何より私に
とって見本となる「教師」でありました。
そんな父親が何の前触れもなく私の目の前
からいなくなったのは、いまから17年前
の1999年12月24日。
忘れもしません、世間はクリスマスイブ。
家族と一緒に過ごす特別な日でした。
死因は急性心不全。
皮肉にも知命の50歳。
当時私は19歳でした。
卒業式も、成人式も、結婚式も、孫の顔も
見ないまま父親は突然天国へと
旅立ちました。
母にとってはさらに厳しい試練が待って
いました。
葬儀場の都合で葬式の日程がずれ、何と
自分の「誕生日」が夫の葬式に
なってしまったのです。
偶然か必然かは分かりません。
とにかくあまりにも受け入れがたい
神の仕業でした。
そして、その後追い打ちをかけるように母は
足を悪くし、仕事を辞めざるを得なくなり、
気持ちもふさぎこみ、家に引きこもり
がちになってしまいました。
私はというと、これから家計を支えなけれ
ばならないのにまだ大学一年生。
すでに兄二人は社会人でしたが、この時
ばかりは自分がお金を生み出せない
存在であることを恨みました。
しかし、私が入学した大学は亡き父親の
憧れの大学であり、この入学が最後の
父親との約束であり、数少ない
恩返しでもありました。
だからどうしても辞めるわけに
いかなかったのです。
とはいえ、現実として、誰も学費を
払ってくれません。
そこから勉強の傍らで自ら学費を
稼ぐための生活が始まりました。
その後5年の歳月が経ち、父親のことも
ようやく整理がつき始めた2004年3月のこと。
お世話になっていた知人から宮崎に面白い人が
いるから一緒に逢いに行こうと誘われました。
その面白い人とはコープ宮崎の亀田高秀
専務理事(当時)。
そう、この亀田さんこそ私に雑誌『致知』
を教えてくれた恩人であり、その意味で
二人目の父親と仰ぐべき人となります。
コープ宮崎はすごい組織でした。
役員の皆さんもレジのパートさんもその
ご家族もみんなコープ宮崎の理念に
ついて日常から語るのです。
その発信源が亀田さんであり、そのリソースの
一つが雑誌『致知』ということでした。
かくして私は『致知』という不思議な
雑誌に釘付けになりました。
その後雑誌『致知』を毎月読みふけるうちに、
不思議と人間の死というものをポジティブ
に捉えられる瞬間がやって来ます。
それが森信三先生の「人生二度なし」
という言葉との出会いでした。
まさにそれは言霊を感じた瞬間であり、
その影響で父親の死というものを受け
入れることができるに至りました。
今回も最後までお読みくださり、ありがとう
ございました。感謝!