窮(きゅう)すれば通(つう)ず
どうも私達は、ふだんなまけて居て仕事や勉強を
せず、いざ、締切日や試験日が近づいてから慌て
ふためき、追い詰められてやっと重い御輿を上げる
傾向があります。
「備えあれば患いなし」と分かって日頃から準備を
しておけば、土壇場になって一つもあわてる必要は
ありませんが、なまけ癖のついた人にとっては、
やるべき事をつい先送りしてしまうようです。
英語で締切日を “デット・ライン„ と言いますが、
まさしく「死線に立つ日」でこの日に否応(いやおう)
なく死刑台に向かい、生きるか死ぬかの瀬戸際に立た
されるわけです。
しかし、追い詰められてやっと仕事に取りかかるのは、
昔の職人気質の人の中にも、普段気乗りのしない時には、
ただぶらぶらして仕事に取り掛からず、
気分が乗った時に、初めて猛然と仕事に取り組み、
立派に仕上げる人もいるので、まんざら悪いこととも
言えないようです。
おそらく仕事の段取りから掛かって、気分が乗るまで
は準備段階でぶらぶらし、乗った時が「起承転結」の
「転」で一気に「結」に追い込むのでしょう。
鎌倉時代の仏師・運慶(1224年没)は、これから彫る
べき仏像の素材である材木に、自分の頭に描いた仏像の
イメ-ジが乗り移るまで、無念無想の境地で、心を
研ぎ澄まし、
そのイメ-ジが映った時から形に沿って無駄な部分を
削ぎ落としていったら、いつの間にやら立派な仏像が
仕上がっていたといわれます。
現代の仏像の彫刻家である松久朋琳(まつひさほうりん)
(1901-1987)さんも、「私は仏像を彫るときに、彫る木に
向かってジ-と見つめていると、それがいつの間にやら
私自身になって、その私を自分が刻んでいるような気持に
なって彫っている」と語っていた。
これは、私達がどんな仕事に携わっていても、あて
はまる事で、自分が成し遂げようとする対象物の懐の
中に飛び込んでいかないと、「虎穴(こけつ)に入らずん
ば虎児(こじ)を得ず」でそれが自分のものにならない
ようです。
対象物が何であるかがわかるという事を、英語で
「アンダ-スタンド」と言いますが、この単語は二つ
の文節である “アンダー„ と “スタンド„ からなり、
自分を “スタンド„ という目の前に立っている対象物
の “アンダー„ 、即ち下に入れた時に、初めて
その対象物が分かったという事になります。
このように仕事をするにあたっては、自分をそれに
追い込まなければ何も得られません。が、仕事だけで
なく私達の人生でも、同じことが言えましょう。
普段恵まれた生活をし、贅沢に慣れてぬくぬく
し始めると、本当の人生の味が分からなくなるようです。
そこでは追いつめられることがなく、本気で生きる
ことを知らないからです。
星野富弘(ほしのとみひろ)さん(1946-)は、かって体操
の教師でしたが、クラブ活動の指導中に宙返りに失敗して
墜落し、首から下が完全に麻痺して、手足の自由を失い、
口に絵筆をくわえて絵や詩を描いています。
その星野さんは次のような詩をうたっています。
見ているだけで 何も描けず 一日が終わった
こんな日と 大きな事をやりとげた日と
同じ価値を見出せる 心になりたい
いのちが一番大切だと 思っていたころ
生きるのが苦しかった
いのちより大切なものが あると知った日
生きているのが嬉しかった
仕事にせよ人生にせよ、追い詰められて初めて、
龍が火の玉を吐くように、自分に与えられたいのちが、
ほとばしり出るのだと思います。
そして自分の力の尽き果てたところから、仏の出番が
始まり、本当に生きる幸せやありがたさが、納得できる
のではないでしょうか。
( 仏教伝道協会 みちしるべより )
今回も最後までお読みくださり、
ありがとうございました。 感謝!