まず第一に地方紙.業界紙.PR誌を丹念に読むことである 第 2,908 号

 大下英治氏が師と仰ぐ梶山季之の人間と作品

を描いた長編書き下ろし。多数の関係者にイ

ンタビュー、文字通り渾身の作品であった

が、ある事情により出版にいたらなかっ

た未発表作品(未亡人が原稿をみて出版に難色)。

 梶山季之は1930年(昭和5年)朝鮮京城(ソ

ウル)に生まれ、45歳で夭折。波乱万丈、

破天荒、文字通りの無頼派作家。早書

き超多作で、所得番付(作家)で

松本清張、司馬遼太郎を押さえ

て一位になったこともある。

 広島大学仏文科の3年生の秋、1966年、

わたしにとって、人生を変える運命の

出会いがあった。

作家梶山季之さんとの出会いであった。

 梶山さんは、広島大学の文化祭に、

講師として来校されたのである。

 梶山さんは壇上で、なぜ週刊誌のトップ屋から

作家になったか、熟っぽく語り続けた。

 「『週刊文春』のトップ屋をやっていて、

いくつかの凄いネタを掴んだが、それを

すべて活字にできるわけではなかった。

東海道新幹線の用地買収の背後に実力

のある自民党の政治家が利権あさり

をしている影がちらつく。それを

追った。確実な裏を取れなかっ

たが、ほぼ事実関係は掴めた。

編集長に、その政治家について

実名で書きましょう、と申し出た。

が、承諾が得られない」

 「事実は小説より奇なり、というので週刊誌

のトップ屋になったわけですが、いくら真実

でも、報道できないことがあまりに多いこ

とを思い知らされた。それなら、事実を

小説に託して書こう。そう思い、作家

として一本立ちしたわけです」

 自分の独立後、梶山さんをあらためて思った。

そのスーパー流行作家ぶりにはただただ憧れ

るだけでなく驚異であった。なんと月に

千枚以上の量産を何年も続けていたの

である。その分野も、経済、政治、

アウトロー、ポルノと幅広い。

 梶山季之は、企画会議の日の夜には、グループ

を引き連れて、銀座のバーに飲みに出かけた。

銀座に飲みに行って、バカ話に興じながら、

ひとつの記者教育をするのだ。

 梶山は、ネタの仕込には力を入れた。そのため

には、まず第一に地方紙、業界紙、PR誌を

丹念に読むことである。業界紙やPR誌は、

関係のない一般の人々には縁がなかった

し、地方紙は大都会の住民は読んで

いないからである。

 次に、情報提供者をつくっておく必要がある。

これは業界紙の記者などとバーで飲みながら

話すことである。

 夜はもっぱら、業界紙の記者だの、各団体の

事務局員だの、情報屋と呼ばれる人々と、

新宿あたりで飲んでいた。

 西洋の格言に、「2杯目のハイボールから

特ダネが生まれる」というのがある。

 実際に、情報源をもつということは、大切なの

だ。これは、と思った人物と、日ごろ付き合っ

ておけばこそ、特ダネが飛び込んでくるのである。

大下英治 (著)『梶山季之。最後の

          無頼派作家』

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  今回も最後までお読みくださり、

      ありがとうございました。感謝!

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