井上馨の富国主義を受け継いで、戦前は満洲
産業界を主導し、戦後は岸信介とともに高
度経済成長を支えて中小企業の育成に
努めた。
鮎川義介(1880~1967)は、満洲建国後、
岸信介、松岡洋右、東条英機、星野
直樹らとともに「二キ三スケ」と
呼ばれ満洲政財界を統括した
5人の実力者のひとり。
従来、鮎川義介については満洲時代を
中心に語られることが多かった。
昭和20年8月、終戦の詔勅を拝した私は、
再建日本の構想を義済会の研究に
もとづき実行に移した。
それは帰還軍人の再教育機関を作り、彼ら
の手によって全国の農村を小規模
工業化する計画である。
しかし、GHQから差し止められ、資金も取
り上げられ手も足も出ないようにされた。
そしてその年の暮れ、私は準A級戦犯と
して「巣鴨大学」に送り込まれた。
私はそこで2年足らず「全寮生活」に
親しんだが得るところは大であった。
卒業論文として、「巣鴨在学中」の研究課題
を考え抜いた。今後の国づくりは「道路」
「水力」「中小企業」の3本柱で
あることに結論を得た。
このごろの世相を見ていると、つくづく考え
させられるものがある。自然界の陰陽の
調和によってうまく運営される、と
いう思想が大昔からあるが、この
摂理は今も人間社会に適用する。
男は陽で女は陰、父親の権威と母親の慈愛
の調和によって子供は立派に育つわけで
あるが、その調和が破られると子供
の根性がゆがめられる。
ムチとエサの使い分け、権威と慈愛の調和、
これこそが人づくりの要諦である。
私たちの目の黒い間でさえ、身辺の事柄
が新聞雑誌に誤り伝えられるという世相、
それは誰しもが経験していると思う。
私の大叔父にあたる明治の元勲・井上馨侯爵
についても、海音寺潮五郎は候を『悪人
列伝第四巻』におさめ、司馬遼太郎
は、「貪官汚吏の巨魁として
悪名を残した」と記した。
私は少年期から候の謦咳に接し、壮年期
にはしばらく候の身辺に暮らし、親し
くその薫陶を受けた人間である。
その間の真相を見聞している私としては、
公平に批判して井上馨さんは不正ので
きる人ではない、むしろ律儀な正直
者の親分といった方が当たっていると思う。
鮎川義介『私の履歴書』
の詳細、amazon購入はこちら↓
今回も最後までお読みくださり、
ありがとうございました。感謝!