東大に現役合格、赤字子会社を立て直した20代、
42歳で社長就任、有名人との華麗なる六本木
交遊、噂に上がった女性芸能人たち…
すべてを手にしていたはずの男はなぜ“カネの沼”
にハマり込んだのか?カジノで失った106億
8千万円!大王製紙創業家三代目転落の記。
丁か半か。そのとき私の目の前には、サラリー
マンの平均生涯賃金の10人分にあたる
チップが山積みされていた。
総額20億円。いつ終わるとも知れぬバカラの
攻防戦に没入する私は、現世にポッカリ口を
開けた無間地獄への入り口に、我が半身
を突っ込みかけていたのかもしれない。
運と偶然性のみが支配するバカラの勝負に、
私は全生命を賭けて挑んだ。
父は倹約家だったため、小学生の息子に
ホイホイ何でも買い与えてやるような
甘やかした教育はしなかった。
小学校時代まで愛媛で過ごし、中学校から
東京の、のちの筑波大学附属駒場中学校
へいくこととなった。
筑駒には変わった教師が多い。
中学3年生に加速度円運動の公式を覚え
させて試験に出す物理教師がいた。
普通であれば高校生になってから学ぶ
物理学を教えたところで、中学生が
ついていけるはずがない。
高校では、なぜか明治14年の政変から日本史
の授業を始める偏屈教師がいた。
1年かけて明治14年の歴史をじっくり教え、
高校2年生になると明治15年に進む。
高校3年生の日本史の授業が終わる頃には、なん
とまだ明治16年だったのは今でも笑い話だ。
学習指導要領を無視して、自分の趣味で
とんでもなく尖った授業をやる教師が
多かったのは愉快だった。
経営者としての父の仕事ぶりは尊敬に値するもの
ではあったが、じっくりと対話を重ねて解決策
を探るわけでもなく、瞬間湯沸かし器のよう
に激高するパーソナリティには冷めた
視線を向けていたように思う。
東大卒業後に大王製紙に入ったとしても、父
とは違ったアプローチで仕事をしたい。
かなり早い時期からつかず離れず、一定
の距離を保っていたように思う。
たった2人だけしかいない私たち兄弟は、
いつもお互い気を遣いあってきた。
ベタベタしたつきあいはしないが、他人からは
わからない強い結びつきがあることはたしかだ。
それは、父という絶対的な存在があった
からこそ生まれた同志意識のような
ものもあるのかもしれない。
それどころか、周囲の反対の声が渦巻く中、
私を全面的にサポートしてくれた。
井川意高
『熔ける:大王製紙前会長・井川意高の懺悔録』
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今回も最後までお読みくださり、ありがとう
ございました。感謝!