2022/12/14 (水) 7:31
どんな偉大な人物にも、若く、
世間から注目されない時期があります。
今年8月にご逝去された稲盛和夫氏の場合は、
どうだったのでしょうか。
氏が鹿児島大学を卒業して
入社した松風工業の後輩として、
後には京セラの後継社長として
その姿を間近に見続けた伊藤謙介さんの
貴重な証言をお届けします。
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〈小野寺〉
当時の稲盛さんはどんな印象でしたか。
〈伊藤〉
5つ年上の稲盛は、僕にとっては兄のような
存在でしたね。
そりゃあ厳しかったですけど、優しさもありま
した。大して給料をもらっていないのに、仕事の
後で僕たち部下をよく飲みに連れて行ってくれ
ました。厳しいだけでは人はついてきませんが、
稲盛は若い頃からとてもバランス感覚に優れて
いて、ものすごくシビアでありながらも、皆に
夢を与え、やる気にさせる力に長たけた素晴ら
しいリーダーでした。
〈小野寺〉
リーダーとしての天賦(てんぷ)の
才のようなものがあったのですね。
〈伊藤〉
それから稲盛は、この実験にはこういう意味が
あるんだと、仕事の意義についてものすごく
丁寧に説明してくれました。
そればかりでなく、仕事とはこういうものだ。
こういう考え方を持って臨むことが大事だという
話もよく聞かせてくれました。
大学を出て間もない若者とは思えないような
立派な仕事観、人生観を既に持っていましたね。
開発した新しいセラミック材料を使った、
テレビのブラウン管用絶縁部品は、松下電子
工業から大量の注文をいただくようになり、
業績不振の会社で唯一の黒字部門になりました。
ところが、大規模なストライキが始まってしまい
ましてね。稲盛は自分たちが開発したセラミック
部品で会社を救いたいと考えていたんですが、
ストが長引けば注文に応えられなくなり、せっか
く必死で築き上げた信用が水泡に帰して
しまいます。
それで稲盛は僕たちに協力を求め、会社に
寝泊まりしてセラミック部品をつくり続け、
スト破りをして納品しに行ったんです。
できた製品を、「ストを破って納めて来い」と
言われるものですから、皆命懸けでしたよ。
〈小野寺〉
あぁ、スト破りをして製品を納められた。
〈伊藤〉
組合幹部が抗議に来て、大勢の組合員の前で
吊し上げに遭ったこともありますが、稲盛は
「この会社にせっかく点った灯(あか)りを消し
たくない」と一歩も引きませんでした。
当時、まだ二十代だった稲盛が
そこまでやったのは驚くべきことです。
お客様を大切にするとか、
使命感を持って仕事をするといった後の
京セラフィロソフィの土台は、もうその頃から
固まっていたのではないかと思いますね。
★本対談の全文は、
『致知』2022年12月号「追悼稲盛和夫」
にてご覧ください。詳細はこちら
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今回も最後までお読みくださり、
ありがとうございました。感謝!