庶民の素朴な生活感情を素直に表現した国民歌集
などではない。山上憶良は家族思いで大伴旅人
は大酒飲みというイメージには問題がある。
性の歌もある。都市生活が営まれ、郊外
も誕生していた。平安文学とのあい
だに断絶はない。…
従来の万葉観を大胆にくつがえし、最古
の古典に新たな輝きを与える。
たとえば次のような私の意見は、読者の方々が
抱いている万葉集観とはかなりへだたり
があるのではないか。
⇒万葉集を「日本人の庶民の素朴な生活感情を
素直に表現した歌集」ということはできない。
万葉集が大いに持ち上げられた時期が何度かある。
最初は平安時代末期、そして江戸時代の中期
以降、つづいて近代である。
平安時代末期は貴族中心の社会が崩壊しつつある
時期がある。華やかな宮廷文化が崩壊に向かっ
ており、技巧的ではないと考えられた万葉
集の歌が新鮮に感じられたのである。
実際、王朝文学では省みられなかった万葉集
の言葉が盛んに用いられた。一種の古典
主義的な復活といえるだろう。
江戸時代中期からは、最古の歌集として万葉集
に特別な価値が与えられた。万葉集の聖典視
の始まりであり、この方向が近代のナシ
ョナリズムと結びついて、国民歌集
的な見方へとつながっていく。
万葉集の和歌は旅の感慨や恋の想いを詠む。
ただし、たとえばそれらを個人の独自な
内面の表現と見ては誤る。いずれも
人々との共感を求める歌だった。
万葉集に時節の挨拶の歌や宴会の雰囲気
作りの歌が基本的に少ないことも、
それを証明しているだろう。
もちろん、和歌は言葉の美しさを追求する。
言葉の芸術、つまり文学である。それゆ
え現代人のわれわれも楽しめる。
万葉集も千数百年前の異世界である。そこに触れ、
何かを発見することは、われわれの楽しみの
世界を広げていくことになるのではない
か。いや、それだけではない。万葉集
という古典に新たな輝きを与える
ことになるはずである。
万葉集の旅の歌に目立つ
のは、海、海人である。
テレビ、ラジオ、新聞、雑誌などの全国的な情報
手段がほとんどなかった古代、言葉はどれくら
い共通だっただろうか。出身地域の離れた
人々同士はどのように会話していたのだろうか。
私は万葉集を読む方法をみつけるために、沖縄の
八重山や宮古の村々を歩き、神謡や祭りを実感
し、人類学や民俗学の書物を読み漁り、古
典を手当たり次第に読みまくった。
表現とそれを生み出す社会を
知りたかったからである。
古橋信孝『誤読された万葉集』
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今回も最後までお読みくださり、
ありがとうございました。感謝!