2021/04/22 (木) 7:31
『致知』5月号では、幼少期から多くの試練、
逆境を乗り超えながら生きてきた
のらねこ学かん代表の塩見志満子さん、
おせっかい協会会長の高橋恵さんの対談が
とても大きな感動を呼んでいます。
本日は、その対談記事の中から
塩見さんの高校教師時代のお話を中心に紹介
します。
塩見さんの温かいお人柄が伝わってきます。
★『致知』最新号「命いっぱいに生きる」。
内容はこちらから
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(塩見)
私は貧しい農家の子として生まれました。
きょうだいは6人いて私は4番目。
父は大酒飲みで、たくさん晩酌をしていました。
私が小学4年生の時だったか、
父が酒を飲んで分からんようになって帰って
きて、しばらくして玄関で目を醒ました時に、
「百姓は貧乏じゃ。なんぼ働いても貧乏じゃ。
だから頼むけん、おまえはこれから心を入れ
替えて勉強して学校の先生になれ。
おまえは勉強したら先生になれる」
と泣きながらそう言うんです。
それで私は頑張って学校の先生になろうと
思いました。
高校3年生の時、担任だった国語の先生が
「いまは女性の体育教師が不足しとるから、
大学に行って体育教師の資格を取れ」と。
だけど、私は学校の授業で一番苦手なのが
体育だったの。
体育さえなかったら、高校生活は
パラダイスだと思っていたんです(笑)。
そうしたらその先生が「おまえが体育が苦手
なのは分かっとる。だけど、体育が苦手な
人間が先生になれば、体育が苦手な生徒を
全部好きになれる。
得意な教科の教員になると、苦手な生徒の
心が見えん。嫌いな科目の先生になることが
立派な教師になる秘訣だ」とおっしゃる。
船乗りになった兄が幸いにも学費を用立てて
くれて、東京の日本女子体育短期大学(現在の
日本女子体育大学)に進むことができました。
1年生の時は「あなたは体育ができんから、
荷物をまとめて帰りなさい」と何回も言われ
ました。でも不思議ですね。「負けてなるか」
と朝4時に起きて誰もいない体育館でバレー
ボールやバスケットボール、跳び箱などの練習
をしていると、6か月で皆から褒められる学生
になったんです。
不可能は可能になるものなんですよ。これは
命懸けでやってみないことには分からない。
最初に勤めたのは東京の田園調布の中学校でした。
いまでは考えられませんが、60年以上前の田園
調布には金持ちの子と貧しい家の子の両方がいて、
私は貧しい子供たちのためにおにぎりを持って
通勤していました。
教室で皆がお昼ご飯を食べる時、一人の男の子が
じっと下を向いている。「あんた、先生のご飯
食べてくれる? 先生はお昼ご飯は苦手なの。
恥ずかしかったらトイレで食べてもいいよ」
とそっとおにぎりを渡すと、「いいんですか」と
言って1人でトイレで食べていました。
12、3歳の子というのはものすごくお腹が
空くんです。
その子とは東京でたった1年間の出会いだったん
です。その子がいまも年に1回は千葉から愛媛に
に遊びに来ますよ。「先生が僕を一人前にして
くれた」と言って。
人間はね、自分が欲さえ持たなかったら、
やったほどのことは必ず自分に返ってくる。
だから、どうか「こんなことをして何に
なるだろう」などとは思わないで、
誰かのために何かやっていただきたい。
それが一番の願いですね。
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今回も最後までお読みくださり、
ありがとうございました。感謝!