世界史上最強のモンゴル軍にからくも勝利した 第 2,698 号

 奈良盆地での文明誕生/中央の湖を自由に行き

かう舟/恵みの地は呪いの地へ/日本列島の地理

的な中心・京都/東日本へ行く要の地/モン

ゴル軍を破った福岡の地形/「信玄堤」

という画期的な治水事業/信長が戦

った比叡山と大坂の地形/今も

現役の「太閤下水」/家康が

関東で発見した宝/安倍川

がつくった鉄壁の軍事

都市/日本堤と墨田堤の

仕掛け/幕末に広重が描いた

風景/全国の森林が消失する危機

日本とベトナムとの統一戦線。

 13世紀、モンゴルは騎馬軍団でユーラシア

大陸を制した。陸の軍団のモンゴル

は海には無知であった。

 朝鮮半島や対馬列島の海の民は、海でつなが

った同胞であった。彼らはモンゴル軍に悲惨

な蹂躙を受けていた。海の民たちは、密か

にモンゴル軍への復讐を狙っていた。

 日本戦線の文永の役で、海の民たちはわざと

湿地が展開する福岡へモンゴル軍を導いた。

 ベトナム戦線では、海の民たちはモンゴル船団

を上手に満潮の白藤江に引き入れてしまった。

干潮時には船団は身動きを取れず、徹底的

にベトナム軍に打ち負かされてしまっ

た。それが白藤江の戦いであった。

 モンゴル軍は日本戦線とベトナム戦線の敗北

で、日本への第三次攻撃を断念し、ベトナム

への再進攻を断念せざるを得なかった。

 13世紀の日本とベトナムは、海の民を介して

共同戦線を敷いて、世界史上最強のモン

ゴル軍にからくも勝利した。

 1590年、江戸に入った徳川家康は何をやって

いたのか。この時期、家康はフィールドワー

クに徹していた。家康は徹底的に関東一帯

を見て歩き廻っていた。この現地調査は、

歴史的に重要な意味を持つこととなった。

 家康は、この関東の調査で「宝物」を探し

当てた。それを手に入れれば、間違い

なく天下を確実にするとてつも

ない代物であった。

 発見した宝物は2つあった。1つは、目に

染みるような利根川の森林であった。

 もう一つは、大湿地の関東平野を、日本最大

の穀倉地帯に転換させる鍵となる

地形の発見であった。

 1590年、家康は秀吉によって関東に幽閉

された。その家康が関東で目にしたのは、

緑あふれる手つかずの利根川流域で

あり荒川流域であった。家康は

日本一の森林地帯、今でい

えば大油田地帯を発見したのだ。

 厄介な利根川の洪水が江戸湾に来なければ、

江戸城の目の前に展開する干潟を埋め立て

干拓するのは簡単だ。この広大な干潟

は日本一の穀倉地帯になる。

 日本一の穀倉地帯で米を作る。米は最高の

金銭価値を持つ。他の大名の領地を武力で

奪わなくても、膨大な財産が手に入る。

家康はこの大湿地帯の下に眠る

大穀倉地帯を見抜いた。

竹村 公太郎  (著)『地形と気象で解く。

         日本の都市誕生の謎』

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  今回も最後までお読みくださり、

      ありがとうございました。感謝!

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