戦後の政界、官界、学界、経済界には、かつての
調査部員の存在があり、彼らが「経済成長」の
青写真を書いた、といっても過言ではない。
つまり、日本は敗戦とともに「満鉄」をはじめ数
多くのハードウェアを中国に置いてきたが、「頭脳」
というソフト・ウェアはすっかり引き揚げてきたのだ。
その時代と人間にとって、大きな象徴がある。
「赤い夕陽」に染まりながら1万2000キロも
のびる鉄路である。
「南満州鉄道株式会社」、通称「満鉄」の存在は、
さまざまな貌で人々の心の中で生きている。
市橋明子が、夕陽についで不思議に思ったのが、
祖国日本の生活設備の劣悪さであった。
満鉄の、たとえば付属病院にゆくと、給湯装置
は完備していたし、医療器具は自動化された
滅菌装置のトンネルからベルトで
ながれてくるのだ。
満鉄本社には600台のタイプライターがうねりを
上げ、電話はダイヤル即時通話であった。
大豆の集荷数量・運送距離・運賃はIBMの
パンチカードシステムで処理された。
特急「あじあ号」は6両編成で営業速度
130キロをマークしていた。
しかも冷暖房付である。
満鉄にはロシア語の2級ライセンスを持つもの4500人、
中国語や英語を話せるものは、いや、話せないものは
ほとんど皆無といった状態である。
この質量ともに重装備の「満鉄」が日本の植民地
経営機関であったことはいうまでもない。
事業のはじめは鉄道と炭鉱の経営である。
「満鉄」は満州で生活する人にとって「赤い夕陽」
とともに不滅の殿堂であった。
この満鉄の頭脳に相当するのが「調査部」である。
「満鉄調査部」が、その40年間に提出した
レポートは6,200件に達した。
研究のために蓄積された資料は書籍・雑誌・
新聞(外国紙)のスクラップを合計
すると5万点におよぶ。
以上は、楊覚勇の8年間にわたる調査によって
とらえられた数字で、楊は「この成果は20世紀
アジアにおける知識の大宝庫ともいえよう」
と高く評価している。
人材も豊富なら資金も潤沢だった。昭和13年、
松岡洋右が満鉄総裁として「大調査部」を
創立したときは、全スタッフ2,120名、
予算は800万円(今日の38億円に相当)。
また「調査部」は満鉄本社の大連にあっただけ
ではなく、奉天、ハルピン、天津、上海、
南京、はてはニューヨークやパリにも
事務所・出張所を出していた。
満鉄調査部は旧帝国陸海軍にとっても「頼り
になる頭脳」であった。
昭和18年から終戦まで関東軍参謀であった
完倉寿郎は、毎月送られてくる「満鉄調査
月報」をむさぼるように読んだが、
昭和19年に調査部が依託にこたえて作成した
「極東ソ連軍後方準備調書」は、完璧という名に
ふさわしい水準であったと追憶している。
後藤新平が満鉄の初代総裁になったとき、
「鉄道課」「地方課」「調査課」を満鉄
の三本柱とし、いわゆる「満鉄調査部」
を誕生したのは、台湾の統治経験
から出ているのであった。
後藤は、その立案や計画が、しばしば常軌を
越える大きさを伴っていたので、「大風呂敷」
との異名も奉られている。
後藤はその在任2年間という短時日の間に、
満鉄マンに金儲けや名誉のためではなく
「仕事のための仕事」をするような
仕掛けをつくっておいたといえる。
人間がみずから動機付けで仕事をすれば
組織はいきいきと動くであろう。
後藤は、後世の人間が求心的な仕事をすること
によって、自分の属する組織の力を増幅させる
ような「なにか」を残していったのである。
この「なにか」の内容は3つあるように思われる。
「発想の新しさ」「実行の大胆さ」「人間に
対する信頼」、これが後藤の人格を構成して
いた三要素で、発動すれば「破格非例の措置」
となって、そうとうな業績を挙げることに
なったといえる。
後藤が台湾統治政策の眼目としたのは、フランスの
ハノイ政庁が注目したように、台湾における伝統的
な慣習の調査(旧慣調査)だった。
満鉄調査マンに共通するのは、「資料」と
「歩く」ということだった。
満鉄に入社すると、まず2年間は、新聞雑誌の
切り抜きと読書だった。
一人が毎朝5、6紙の外国紙をあてがわれ、
必要な箇所を赤鉛筆で囲む作業をさせられる。
手慣れてくると、この作業は午前中に
終わってしまう。
午後からは読書である。
読みたい本は図書館にそれこそ汗牛充棟
のさまで詰まっていた。
マルクス・エンゲルス全集はもちろん、ヴォルガの
「経済年報」、レーニン著作集、「1927年テーゼ」
などなど、日本内地では読むことはもちろん、
持つことさえ危険になっている本も自由だった。
草柳大蔵『実録・満鉄調査部、上巻』
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今回も最後までお読みくださり、ありがとう
ございました。感謝!