石畳の街で、ひたすら「学びかた」を学ぶ。
けっして知的エリートではない40代のひとり
の画家が、アカデミズムの頂点のような場所
で、「自分とは何か?」を問い直しながら、
学ぶことの至福と意味を感じ続けた日々。
オックスフォードは不思議なところだ。
歴史上のあらゆる時代が混在し、
今でも確かに息づいている。
伝統を守り、古い規則があれこれと残って
いる一方、何かの拍子にアカデミックな
経歴のない人間をすんなりと、受け
入れてくれる柔軟性と革新性がある。
オックスフォードでの学び方は、チュータ
リング(個人指導)やレクチャー(講義)
などがある。
学生が大学で学ぶ時間は、
年間24週と大変短い。
ひとつの講義は一学期に多くて8回、
短いものでは5回ほどで終了する。
レクチャーだけをいくつか聴講してもオックス
フォードの教育を受けたことには全然ならない。
なぜならここの学生にとって、勉学の場とは
レクチャーではなく、チュータリングだからだ。
チュータリングとはひとりの先生に2,3人で
受ける個人指導のことで、そこでは要求され
る文献を読破し、与えられた命題について
のエッセイ(小論文)を書き、討論する
のがすなわち勉強である。
講義はあくまで補佐的なもので、学生は
よほど興味がなければ出席しないらしい。
言い換えれば、知識を身につけるのは勉強
するための準備であって、それらを使って
ものを考え、学問を創造することが、
彼らにとっての勉強なのだ。
院生など、論文を書くために大学に来ている
のだから、講義などはほとんど息抜きの
お楽しみのようですらある。
ある英国人が言っていた。
「本にすることによって、英国では自動的
に5つの図書館に所蔵される。
そうすれば、いつか、何百年かの後、誰
かがこの本を手に取るかもしれない。
私はその人と交信することができる。
だから私はどうしても本にしておくのです」
「きっちり足に合った靴さえあれば、どこ
までも歩いていけるはずだ」須賀敦子の
『ユルスナールの靴』の冒頭の言葉である。
人は自分より大いなる何かに
触れたとき、感動する。
私たちが歴史に感動するのは、それが
自分の一生では把握できない大きな
時間と、そのなかに生きた多く
の人々の人生を俯瞰させてくれるからだ。
私たちが旅に出るのは、自分とはまったく
違った世界観を持つ、多くの見知らぬ文化
に遭遇し、そのすべてを内包する世界
の大きさを身体に感じたいからだ。
オックスフォードは、時間と空間を超えた、
大いなるものを感じさせるところだった。
『源氏物語』が日本だけのものではなく、
モーツァルトがオーストリアだけのもの
ではないのと同じように、オックス
フォードもまた、もはや英国
だけのものではない。
ただ、この複雑でお金のかかる有機体が
存在し続けるには、世界の富をかき集め
た国にあることは必要条件だった。
その意味でオックスフォードが英国に
あったのは全人類にとって幸いだった。
この学者のためのアルカディアは、
私たちすべてのためにあるのだから。
美術の歴史を、他の学問にも精通
した広い視野を持って眺める。
それは、美術をさまざまな角度から検証し、
その枠組みから見直し、より客観的に、
相対的に見る作業である。
人間は何を描き、何を創ってきたのか。
それは例えば、天文学と神学と、
どうかかわっていたのか。
美術、芸術という営みは
人間にとって何なのか。
なぜ人間は太古の始めから
美を創造し続けているのか。
それは、畢竟、「人間とは何か」
という問いに帰結する。
小川百合
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今回も最後までお読みくださり、ありがとう
ございました。感謝!