本日は、福沢諭吉の名著『学問のすすめ』の
一節をご紹介します。
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◎理解と実践は別物である
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先ほど「いまわが国民のことで、
私が最も心配しているのは、
その見識が浅くて狭いことだ」と言いました。
人の見識や行為においては、
難しい理論を語ることが
レベルが高いというわけではありません。
たとえば、禅は「道を悟る」などといって、
やたらと奥が深いわけですが、
その僧侶のやっていることを見れば、
回りくどいだけで役に立ちません。
実際には、ただ漠然としているだけで、
見識はないに等しいものです。
また、見識や行為は、
ただ見聞が広いからといって
レベルが高いわけではありません。
万巻の書を読み、天下の人と交流しておきながら、
何一つとして自分の考えがない者がいます。
古い習慣をかたくなに守っている
漢学者や儒学者がこれに当たります。
儒者だけでなく、洋学者であっても
この弊害からは逃れられません。
最近、絶えず進歩していく
西洋の学問に進もうとする人がいます。
経済学の本を読んだり、
修身学を論じたり、
哲学や科学を学んだり。
日夜、精神をすべて学問に捧げて、
まるで茨の上に座って
苦痛を堪え忍んでいるように見えるのに、
その人の中身を見れば、
決してそうではありません。
目は経済学の本を見ているのに、
一家の家計を営むことができない。
口は修身論を唱えているのに、
自分自身の徳を修めることができない。
その理論と実践を比較してみれば、
まるで二人の人間がいるようで、
一定の見識があるようには見えません。
とどのつまり、こういうことです。
こういった学者の言うことや理解している
ことは間違っているわけではない。
しかし、ものごとの正しさを理解する心と、
その正しいことを実際に行う心は、
まったく別物である、と。
この二つの心は一緒になることもあれば、
ならないこともあります。
「医者の不養生」や「論語読みの論語知らず」
といったことわざあるように。
要するに、人間の見識や行為は、
難しい理論を語ってレベルが高いというわけ
ではなく、また見聞を広くするだけでレベル
が高くなるわけでもないのです。
学問のすすめ 福沢諭吉・著、
奥野宜之・現代語訳
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今回も最後までお読みくださり、
ありがとうございました。感謝!