ノモンハン事件、大東亜戦争開戦、ガダル
カナル戦……。国家の命運を左右する参謀
本部の中枢に居続けた作戦参謀「服部
卓四郎」。戦時下では、参謀本部の
田中新一や辻政信、そして東條
英機や石原莞爾らとどのよう
に関わっていたのか。
帝国日本が敗戦への道を突き進んでいく過程で
何が服部らエリートを突き動かしたのか。戦後
はGHQに庇護される立場となり、『大東亜
戦争全史』をまとめ上げたが、その胸中
に去来した思いとは。そして、この男
の生涯と折々の言動を丹念に追う
ことで見えてくる日本軍の失敗の根因とは――。
自衛隊初期の旧軍人らの一部は、「服部
グループ」といわれるグループの出身
メンバーであり、戦後日本を支配
したGHQとも浅からぬ繋がりをもっていた。
「服部」とは、旧陸軍で大佐の地位にあり、
大東亜戦争中は2度に渡って参謀本部第一
部(作戦)の第二(作戦)課長を務めた、
服部卓四郎のことをさす。
服部の存在は、日本再軍備と無関係
ではなかった。
服部は、大東亜戦争の始めから終わりに近い
段階まで参謀本部の中枢にいたのである。
服部はそれ以前にも、関東軍の作戦主任参謀
だったことがある。この時期、有名なノモン
ハン事件が起き、服部は辻政信と共に、
関東軍を主導した。
どうやら服部は外面人当たりがよく、一見する
と温厚な人物として認識されていたようだ。
尾形の回想にあるように「パリ仕込みの洗練さ」
であるかどうかはともかく、人間関係において
良いイメージを持たれる人物だったのは
間違いなさそうだ。
田中新一や辻などアクの強い人間がいる場所に
おいて、間に服部のような温厚で紳士的な人間
がいることは組織の潤滑油として少なくない
役割を果たしたことだろう。
服部は失敗を犯してもあまり悪い印象を与えず、
人間関係を築くことに特に優れた能力は、
多方面で重宝された。
敗戦後も彼の部下は、服部について好意的な
イメージを語り残していることが多い。
中国から帰国した服部は、間もなく復員庁史実
調査部に勤務することになった。
服部はここからさらに復員局資料整理部長、
さらにはGHQの歴史課に勤務する
ことになる。
服部が所属した部署名からもわかる通り、
彼はおもに史実、すなわち大東亜戦争に
関する様々な事実関係を調査する機会
をもった。
有馬哲夫によると、大東亜戦争初期、マッカー
サーと共にフィリピンのバターン半島の戦い
で敗れたウィロビーは、この戦いについて
の服部の説明に特に感銘を受けたという。
このことがきっかけとなり、ウィロビーは服部
の作戦立案能力の高さを認め、親交を深めて
いったという。
岩井 秀一郎 (著)『服部卓四郎と昭和陸軍』
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ありがとうございました。感謝!