1949(昭和24)年6月、九州・延岡の海岸から小さな
漁船が夜陰にまぎれて静かに離れていった。
船が目指すのは、真っ黒な海原のはるか彼方に
ある台湾。
その船には、日本陸軍の元・北支那方面軍司令官、
根本博中将が乗っていた。
傍らには、「俺の骨を拾え」と言われて随行を
命じられた通訳が一人。
この時、蒋介石率いる中国国民党と毛沢東率いる
中国共産党との「国共内戦」が、まさに決着を迎え
ようとしていた。
共産軍の攻勢によって、大陸から撤退し、いよ
いよ金門島まで追い込まれた蒋介石。
根本は蒋介石を助けるために「密航」を
敢行したのである。
密航の途中、座礁や船の故障で、九死に一生
を得ながら、根本は台湾に辿り着く。
感激した蒋介石から根本は「林保源」という
中国名を与えられ、金門島に赴く。
そして、林保源将軍こと根本博は次々に作戦
を立案し、押し寄せる共産軍に立ち向かった――。
「台湾」と「台湾海峡」は誰によって守られ、
なぜ今も存在しているのか。
本書は、その謎に挑み、「義」のために生きた
一人の日本人と、国境を越えてそれを支えた
人たちの姿を「現代」に蘇らせたスクープ
歴史ノンフィクションである。
台湾領でありながら、台湾本島から180キロ
も離れ、一方、中国大陸からはわずか2キロ
しか離れていない「金門島」。
大陸にへばりつくように浮かぶこの島は、
なぜ今も台湾領なのだろうか。
金門島と台湾本島との間に圧倒的存在感を
もって横たわる台湾海峡は、なぜ今も、
中国の「内海」ではないのだろうか。
台湾と台湾海峡を守るために日本から
やってきた謎の男。
その日本人は、敗戦から4年が経った1949年、
ある恩義を台湾に返すために「命を捨てて」
この地に姿を現したのである。
第二次世界大戦後、自由主義陣営と共産主義
陣営との剥き出しの覇権争いが、世界
各地で行われた。
その中でも、質的にも量的にも最大の熾烈な
激突が中国大陸で繰り広げられた。
国民党の蒋介石と共産党の毛沢東との間で
行われた血で血を洗う激戦、いわゆる
「国共内戦」は、ここ金門島で
決着がついたのである。
それは誰にも予想しえなかった「国民党の
勝利」に終わった。
敗走に敗走を重ね、雪崩をうって駆逐されて
いた国民党軍(国府軍)が、この戦いに
だけ「大勝利」する。
それはまさに「奇跡」としかいいようの
ないものだった。
そしてその陰に、実は、その日本人の
力が大きくかかわっていたことを
知る人は少ない。
元日本陸軍北支那方面軍司令官・根本博中将。
終戦後の昭和20年8月20日、内蒙古の在留邦人
4万人の命を助けるために敢然と武装解除を
拒絶し、ソ連軍と激戦を展開、そして
その後、支那派遣軍の将兵や在留
邦人を内地に帰国させるために、
奔走した人物である。
在留邦人や日本の将兵が国府軍の庇護の下、
無事、帰国を果たしたとき、根本はその
ことに限りない「恩義」を感じなが
ら最後の船で日本へ帰って行った。
「義には義をもって返す」軍人でありながら
ヒューマニズムの思想に抱かれ、生涯、
その生き方を貫いた戦略家。
戦後、大転換を遂げた価値観によって混乱の
波間を漂い続けた日本で、なぜ彼のような
軍人が存在しえたのか。
「命」を守り、「義」を守った陸軍中将。
彼のしたことは、その偉業から60年を経た
今も、決して色褪せることはない。
本書は、命を捨てることを恐れず、「義」
のために生きた一人の日本人と、国境を
越えてそれを支えた人たちの
知られざる物語である。
台湾は日清戦争で勝利した日本が清国から
割譲を受け、50年間にわたって心血を
注いで発展させた地だ。
清朝が「化外の地」として統治すること
すら敬遠した地を、必死の思いで開発し、
整備し、教育を施してきた。
明石元長は、わずか2年とはいえ、
小学校時代を台北で過ごしている。
父親の明石元二郎が台湾総督として台北に
赴任したのは、大正7年である。
元長はこのとき、小学5年。
元二郎は、妻も2人の娘も、そして母親も
東京に置いたままだったのに、なぜか
長男の元長だけを連れて、台湾に
赴任している。
日露戦争時、日本陸軍最大と称された謀略
工作をヨーロッパの大地で展開した元二郎
が、小学校の高学年となった息子を手元
に置いたのは、自分が得てきた知識や
経験を、息子に引き継ごうという
思いがあったことは想像に難くない。
門田隆将
『この命、義に捧ぐ:
台湾を救った陸軍中将・根本博の奇跡』
の詳細,amazon購入はこちら↓
今回も最後までお読みくださり、ありがとう
ございました。 感謝!