私自身も毎号『致知』の出版を待ちわびている
読者の一人であります。また、表紙の写真に
していただいたこともあります(2016年10月号)。
本当に光栄でありがとうございました。
あの表紙の写真を見まして、妻が
「これは素晴らしい写真だ」
「こんなに男前のあなたを見たことがない」
「さすが『致知』だ」と申しておりました。
致知出版社の人間力メルマガ 2019.3.4
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このようなご挨拶から始まったのが、
『致知』創刊40周年記念式典における
山中伸弥さんのご講演でした。
この続きをもう少しだけご紹介します。
山中さんが医学の道に進む上で
原点となったお話です。
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私の誕生日が9月4日でありまして、
先日、56歳を迎えました。
(中略)
私も56歳になりまして、「おっちゃん」
になってしまったわけですが、昔は可愛い時がありました。
これが可愛かった頃の私であります。
なんとなしに、頭に面影があるという人もいるんですが(笑)、
私を抱っこしてくれているのが父であります。
私の父は医師でも、研究者でもなくて技術者でありました。
東大阪市というところで小さな町工場を経営しておりました。
非常に元気な父だったのですが、私が中学生くらいの時に
仕事中に怪我をいたしました。
大した怪我ではないと思ったのですが、思いの外、
出血して輸血をすることになりました。
幸い怪我は治ったのですが、
その輸血が原因で肝炎になってしまいました。
当時はまだ肝炎の原因が分かっていなかったため、
治療法もございません。どんどん健康が損なわれていきました。
あれだけ元気だった父がどんどん顔色も黒ずんでいきました。
酷くなっていくと、肝硬変になって、全身に毒が回り、
非常に頭のいい父親だったのですが、
時々訳の分からないことも言い出すようになりました。
そういう父を見ている間に、私自身、
医学にすごく興味を持つようになりました。
そして父自身も、「仕事は継がなくていいから、
医者になったらどうだ」というふうに勧めてくれましたので、
医学部に進学し、1987年に外科医を目指して研修医になりました。
しかし、その頃には随分父の病気は重くなっていました。
本当に毎日苦しそうでした。治療法がございませんので、
臨床医になった私ですけれども、何にもしてあげられない。
点滴でちょっとごまかすくらいしかできないという状態でした。
そして医師になった翌年に、
とうとう父は亡くなってしまいました。
まだ、58歳の若さ。私はいま56ですから、
58で亡くなるとしたら、どれだけ悔しかっただろうと、
父の気持ちを痛いほどいま強く感じています。
この父の死が、臨床医になったばかりの
私にとって本当に悔しいと言いますか、無力感ですね、
「何をしているんだ、俺は」と。
せっかく医者になったのに、父に何にもしてあげられなかった。
そういう非常な喪失感、無力感に襲われたのを覚えています。
30年前、私は26歳でありました。
「iPS細胞がひらく新しい医療」
山中伸弥氏(京都大学iPS細胞研究所所長)
今回も最後までお読みくださり、
ありがとうございました。感謝!