幕末維新の指導者たちに、多大な影響を
与えた人物がいます。水戸藩士の藤田東湖です。
明治維新の震源地は水戸であり、
その震源地のマグマとまで称された
藤田東湖の人物像に童門先生が迫ります。
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童門 冬二(作家)
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幕末維新を語る人は、必ず、
「明治維新の震源地は水戸だ」という。
同時に、「にもかかわらず、水戸では
藩内抗争が激しくて、ふたつに分裂した派が
相殺作用をおこない、あたら人材を全部失ってしまった。
そのため、明治新政府が実現しても、
トップクラスにポストを占める人物がほとんどいなかった」
といわれる。
それによって、水戸藩の役割がどこかで
終わったような見方をする人もいる。
しかしそれは事実とはまったく違う。
たとえ明治新政府に水戸藩から高級官僚が
出現しなくても、水戸の主張は日本全国に渡って、
脈々と生き続けたのだ。
そして、その維新の震源地である水戸の地底に
ドッカと腰を据えて、まるでマグマのような役割を
果たしていたのが藤田東湖である。
藤田東湖は、安政2年(1855)10月2日の江戸大地震で、圧死した。
それも、いったんは家から飛び出し命は助かったのだが、
母親がまだ家の中に残っていることを知ってふたたびとって返し、
落ちてくる梁を自分のからだで受け、母親を救ったために死んだ。
愛情の深い人間だった東湖らしい最期だった。
この地震では東湖の同志だった戸田蓬軒も死んだ。
この悲報を受けた薩摩藩の西郷隆盛は、
鹿児島の大久保利通に対し次のような手紙を書いた。
「この2日の大地震は、前古未曾有にて、(あなたと)同様に、
杖とも柱とも頼んできた水戸の藤田、戸田の両雄も、
黄泉とならせられ候始末、いかにも痛烈の至り、
何ごともこれきりと深く悲しんでおります。
お察しください」
また、開国論者で有名な肥後熊本の学者横井小楠も、
「自分の考えも、藤田先生がご生存であれば、
一度は見てご指導を仰ぎたいと思っておりましたのに、
このたびのこ落命は、実に力を落としました。
こうなっては、いったい誰に向かって自分の考えを
告げればいいのか、本当に心寂しく思います」
さらに、東湖と大激論をし、絶交状態に
あった開明派の佐久間象山は、
「東湖が死んだ。いまかれの書いた本を読んでいて、
いろいろな思い出にひたっている。
すべて明日のことのようだ。しかし東湖はもういない。
大きく息をついて涙を流し放しにしている」
と嘆いている。
(中略)
ひとことでいえば、藤田東湖の影響はそれほど大きかった。
かれと接触し、影響を受けた幕末維新の人物には、
学者、大名、各藩の有力藩士、幕臣など幅が広い。
最右翼から最左翼にまでまたがっている。
当時の思想でいえば、
「尊皇穰夷派」と、「佐幕開国派」の
二潮流の指導者たちがすべて入っている。
こういう幅広い人々との交流を見ていると、
藤田東湖は単なる尊皇壌夷論者ではない。
佐幕開国派から見ても、「藤田東湖先生の言説には、
耳を傾けなければいけない点がある。
単なる尊皇撰夷論を唱えているのではない。
奥行きが深い」という感じ方をさせていたのだ。
たしかに、水戸藩から明治新政府への参加者は
少なかったが、こう見てくると藤田東湖は、
「明治維新実現の指導者になった人々の指導者」
だったといっていい。別ないい方をすれば、
「他人に大きな影響を与える人に大きな影響を与えた存在」
ということができる。
東湖と交流した人々は、それぞれの立場で
自分の思想や行動の拡散作用をおこなった。
思想や行動の「核」となった。
その「核となった人々」は、
すべて藤田東湖の影響を受けている。
となれば、藤田東湖は、
「幕末維新の核となった人々の核」
であったといえるだろう。
『致知』1995年3月号
連載「新代表的日本人」P130
今回も最後までお読みくださり、
ありがとうございました。感謝!