選手第一主義を貫き通した落合監督。
自ら先頭に立って戦う姿勢を示した
王監督。細かい目配りで選手の
やる気に火をつけた森監督……。
名将たちそれぞれの流儀の先にある共通
した采配とは! 現役・コーチ時代を通じ
て、リーグ優勝12回、日本一7回、
世界一も経験したからこそ見
えてきた、勝ち続けるチー
ムのプロフェッショナル野球&リーダー論。
西武第二球場で、私と同じ佐賀県出身の
ルーキー・永江恭平(海星高)らが泥
だらけのユニフォームで内野ノッ
クを受けている様子を見たと
きには、「ああ、オレも
あんな時代があった
なあ」と、入団当時の広岡達朗
監督のノックを懐かしく思い出したものだ。
ここで私は広岡監督に徹底的にしごか
れたおかげで、プロでメシが食える
体力を身につけることができ、
40歳まで現役を続けられ
たと思っている。
その後、森祇晶監督の下で9年間に8度
のリーグ優勝、6度の日本一という
西武の黄金時代を経験。
1996年には野村克也監督率いる
ヤクルトスワローズに移籍。
ご存じID野球の野村監督。
入団1年目のキャンプ初日から、練習
終了後に宿舎の大広間でレクチャー
を受けた。人生観、野球観には
じまって、カウント別の投手
心理や打者心理を叩き込まれた。
広岡監督、森監督、野村監督らの下で
過ごした現役時代。そして王監督、
落合監督らの下で経験した指導者時代。
名将たちのさまざまな采配ぶり、人材を
活用するノウハウ、さらには個性派集団
をまとめあげるためのチーム作りのノ
ウハウを肌身で感じ、野球の奥深
さを教えられた。同時に野球
の怖さも教わった。
妥協を許さない意志力。
1982年に西武の監督に就任した広岡さん
は、勝利を得るために走・攻・守の三拍
子が揃った選手の育成を目指した。と
くに守備に関しては、100%を求めた。
100%を実現するためには
厳しい練習しかない。
私が入団したころの西武ライオンズ
の練習は、とにかくハードだった。
トレーニング終了後は「クールダウン」
と称して、球場近くの多摩湖(1周約
10㎞)のまわりをひたすら走る。
練習で徹底的に走り込み、クールダウン
でまた走るのである。まだ新人だった
私には他球団の事情はわからなか
ったが、「プロはこんなに走
るのか」とびっくりする
くらい走らされた。
さらにいえば、落合監督は練習
時間に制限を設けなかった。
時間制限がないと、選手は自分が
納得するまで練習する、これは
自主性につながる。
つまり、体と技を鍛えながら、
心を鍛えているわけだ。
広岡さんの野球は「管理
野球」と呼ばれている。
監督は1977年のキャンプから守備走塁を
徹底的に重視した練習方針を打ち出し、
またグラウンド外では麻雀・花札・
ゴルフを禁止。飲酒・喫煙
を制限したという。
広岡さんの前任だった根本陸夫さんと
いう監督は、「球界の寝業師」とも
呼ばれ、チームの基礎作り
に定評があった。
その根本さんを引き継ぎ、広岡さんが
監督を受けたときの西武ライオンズに
は、ベテラン陣に加えて、前記の
ようなスターの原石が揃っていた。
新旧の混淆。これらの選手たちをまとめ
上げ、意識を一つにして、「優勝」と
いう目標に突き進むためには何か
強力な旗印が必要だった。
それが、ヤクルト時代に実証
済みの管理野球だったわけだ。
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今回も最後までお読みくださり、
ありがとうございました。感謝!