なぜ信長も今川も「桶狭間」を重視したのか?
「戦国最強」の武田軍団が天下を取れなかっ
た最大の理由とは? 日本史上空前の高度
経済成長をもたらした信長の「デフレ
政策」とは? 戦国史の謎は「経済」
で見るとスッキリ解ける!
なぜ織田信長は今川義元が油断している時に、桶狭
間で攻撃することができたのか?その謎を解く
カギが、実は「経済」なのである。
信長の経済力を支えたある「港」の存在。「津島」と
いう港は、尾張と伊勢を結ぶ地点にあり、西日本
と東日本のちょうど中間に位置していた。
木曽川の支流大川と天王川の合流点
でもあり、尾張、美濃地方の玄関口でもあった。
信長の父、信秀の代の織田家は、版図自体はそれほど
大きくないが、経済力はかなりのものを持っていた。
信秀を支えていた津島は、当然、信長に受け継が
れた。信長が強力な常備軍を持てたのは、
この津島の収益のお陰でだったといえる。
そもそも「桶狭間の戦い」とは、通説では、今川
義元が天下に号令をかけるために上洛しようと
し、尾張に侵入してきたところを信長が迎
え撃った、ということになっている。
しかし、近年の研究では、これは否定されつつある。
今川義元はこの出撃に際してそれほどの準備はし
ておらず、上洛する意図があったとは考え
られない、ということだ。
ではなぜ今川義元は尾張に侵攻してきたのか?
広い意味では、戦国大名同士の領土争いの
一環であったといえる。そして、狭い
意味でいうなら、経済要衝の地
「知多半島」を奪い合った戦いということである。
実は信長は日本の経済史、金融史に残るような
改革を多く実行している。信長が天下統一
目前まで行ったのは、経済政策による
ものだといっても過言ではない。
信長というのは、意外かもしれないが、庶民に
対しては非常に善政を行ったといえるのだ。
その最もたるものが税制である。信長は税の
システムを簡略にして、中間搾取を極力減
らし、農民の負担を大幅に軽減したのである。
武田知弘『「桶狭間」は経済戦争だった:
戦国史の謎は経済で解ける』
の詳細,amazon購入はこちら↓
今回も最後までお読みくださり、
ありがとうございました。感謝!