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絶対量が足りない一年生の教科書
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そうした観点から現在の
小学校一年生の国語教科書を見ると、
力強さが足りません。
絵や写真を見て考えることを促す
対話的な授業に役立つ形式にはなっていますが、
何しろ活字が少ないので
思考が簡素にならざるを得ないのです。
国語という教科は、
まず子供たちに言葉をプレゼントするものなのに、
一年生で学ぶ漢字が少なすぎます。
六年間積み重ねても、
江戸時代の子供たちの国語力には到底及びません。
これはおかしな話です。
時代が進めば言語能力も高くなるべきなのに、
明らかに低下しているのです。
その差は江戸時代に教育を受けて
明治時代を過ごした人たちの残した
文章を読めば分かるでしょう。
非常にレベルの高い文章で書かれています。
漢語が多いだけでなく、
思考がしっかりしていて、
言いたいことも明確に伝わってきます。
また語彙も豊富です。
昔の日本人はそういう言語能力を持っていたのです。
いまSNSで交わされている
言語のレベルが必ずしも低いわけではありません。
軽やかにやり取りするセンスはいいと思いますが、
語彙の絶対量が欠けているため、
同じような言葉を使ってしまう。
語彙力に限界があるのです。
こうなってしまった背景にあるのが、
「話す、聞く」教育の重視です。
ある時期に日本の国語教育は
「話す、聞く」ことを
教育の大きな柱として設定しました。
それ自体はコミュニケーション重視の
現代においておかしなことではないのですが、
実際には語彙が不十分であるため、
知的レベルの高い対話とはならず、
なんとなく話し、聞く練習をする
という形になってしまいました。
私はかつて文部科学省の教科書を
改善する委員になった時に、
小学校の国語教科書はもっと厚くていいし、
活字も多くていいのではないかと提案をし、
議論をしたことがあります。
母語が重要なことは明らかで、
外国語を学ぶ時にも母語の限界が
第二言語の限界になるのです。
最近、同時通訳の機械がいろいろと出てきています。
そこで変換されるのは「意味」です。
言葉の意味さえしっかりしていれば、
何語でも他の言語に訳すことができるのです。
意味を読み取り、意味を伝える。
この当たり前の作業は
語彙力によって支えられています。
相手が語彙の豊富な言語を持ち、
こちらの語彙が少なければ、
大雑把な意味しか受け取れないし、
伝えられないのです。
その点で日本がうまくいったのは、
明治維新の際に言語を増やしたからです。
societyという言葉に当たる日本語がなかったので、
それを「社交」や「社会」と訳しました。
rightは「権利」「自由」「通義」と訳していました。
西洋の言葉を翻訳することによって
新しい日本語を生み出したのです。
明治維新は新たな言葉を生み出す絶好の機会となり、
そこで日本語が大きく膨らみ、成長したのです。
それらの言葉を通して
日本人は西洋のものの考え方を身につけました。
これなくして憲法や法律は成り立ちませんでした。
私たちがいま法治国家で暮らせているのも、
西洋の言葉を日本語にして身につけ、
学習してきたからです。
今回も最後までお読みくださり、
ありがとうございました。感謝!