歴史の教訓から政権交代の意味を考える。
黒船来航から明治維新へ、命がけで「国
づくり」に参画した日本人の生き方を、
現代の政権交代を担うリーダーに
重ねながら検証する。
歴史の神クリオは時にいたずらをする。
地味な人物を一度だけ表舞台に登場
させ、一大事を処理させる。
そして、その役者は2度と華やかな
場面にはもどらない。
薩摩の重野厚之丞は、一度だけ幕末
政治でスター級の役割を果たした。
薩英戦争後の外交交渉で、大英帝国を
相手に談判を堂々と繰り広げた。
重野らは進んで講和を求めるのを潔し
とせず、会談冒頭から英国の非ば
かりを一方的に責め立てた。
交渉の主導権を握った感さえある。
雄弁家は、外交や政治でも時に
訥弁や寡黙の士にはかなわない。
第一次世界大戦後にトルコ分割を策した
英国のカーゾン外相の流暢な口説にあっ
ても、トルコの全権イスメト・イノ
ニュは平気で沈黙を守り、とき
には聞こえないふりをした。
真木和泉の真骨頂は、いつも生命の
危険と背中合わせの冒険から
逃げないことである。
その本領は禁門の変でも
遺憾なく発揮された。
天皇の御座所の近くをためらわず砲撃
したのは、久坂玄瑞や入江九一といっ
た20代の血気盛んな若者ではなく、
むしろ最年長52歳の真木や48歳
の来島又兵衛あたりであった。
この修羅場を見ても真木のすごいのは、
全然たじろがないことなのだ。
尊攘や倒幕という大革命が成就するのに、
このくらいの犠牲は何だと割り切っている。
そこで真木が発した有名な言葉が、「形
は足利尊氏でも、心が楠木正成なら
ばよい」というものだ。
土佐の前藩主、山内容堂は、若い頃から
酒を愛し、「鯨海酔候」と称し、一日
3升ともいう酒量を誇った。
幕末政治史に目を転じれば、世紀の
大失言は、あまりの酒癖の悪さ
から生まれている。
この失言は1867年12月の小御所
会議の席で起こった。
山内容堂は、維新後も両国や柳橋などで
連日豪遊し、家産が傾きかけても、「昔
から大名が倒産した例はない。俺が
先鞭をつけてやる」と豪語したと
いうから根っからの遊興好き
だったのだろう。
岩倉具視は貧乏下級公家の出身ながら、
小賢しく立ちまわるので「岩吉」と蔑
称されたが、少しも気にしなかった。
薩摩藩と気脈を通じながら、
ひそかに時節の到来を待った。
岩倉が政治家として優秀なのは、待つ
ことができた点であり、沈黙を守る
忍耐力に恵まれていたことである。
しかも機を見るに敏であった。
政治家に必要なのは何事かをなさん
という迫力であり、みめ麗しい
容貌ではありえない。
松平容保の毅然とした清々しさは、
その気品あふれる容貌にも自
ずから表れている。
容保の独特な勇気と使命感は、その悲
劇性とあいまって、会津の美名を
日本政治史に残した。
容保のように決意と責任感にあふれた
政治家は、これからも歴史と国民の
記憶に刻み込まれるだろう。
土方歳三を好きな人は、剣に生きた新撰
組のなかでも、江戸、京都、奥州、函館
と各地を転戦して、一介の剣術使い
から優秀な指揮官や政治家に成
長していくあたりにロマン
を感じるであろう。
年を重ねるほどに、土方は成熟した
幕府軍事官僚としての風格を
見せるようになった。
理由の一つは交友関係だ。
会津藩の預かりから出発した浪士集団
の幹部として、会津藩公用方との折衝
や、砲術家の林権助のように古武士
然とした会津サムライとの交友
は、土方にも武士とは何か
という自覚を持たせた。
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今回も最後までお読みくださり、
ありがとうございました。感謝