祖業である電子顕微鏡で世界トップシェアを誇り、
ノーベル賞の陰の立役者と称される
理科学・分析機器メーカー日本電子。
しかし営業畑生え抜きの
栗原権右衛門氏が社長に就任した時、
同社は未曽有の経営難に喘いでいました。
そこからいかに立ち上がったのか、
経営改革の歩みに迫ります。
★経営・仕事の極意が満載、
栗原権右衛門氏のインタビューはこちら
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(――取材に先立ち貴社(本社/東京都昭島市)
の構内を拝見しましたが、江崎玲於奈博士など
ノーベル賞を受賞された
一流の科学者による植樹があり、驚きました。)
〈栗原〉
そちらに飾ってある
「知足者富」(足るを知る者は富む)の色紙も、
イベルメクチンの開発で2015年に
ノーベル生理学・医学賞を受賞された
大村智先生にいただいたものです。
ありがたいことに、当社の主なお客様は
そうしたノーベル賞受賞者、候補者を含む
トップクラスの科学者なんですよ。
まず当社の歴史を簡単に説明しますと、
当社は戦後間もない1949年、
電子顕微鏡
(それまでの光学顕微鏡の100~1,000倍、
高精細の像を表示する)
を開発する日本電子光学研究所として、
元海軍将校の風戸健二により設立されました。
食べるのもやっとの時代に
なぜ顕微鏡だったかというと、
海軍技術研究所のエンジニアも務めた風戸には、
日本の敗戦は科学技術の弱さに一因があり、
基礎科学の振興なくして
日本復興はないとの思いがありました。
そして電子顕微鏡の研究者・黒岩大助の著書を
読み、これが広まればいままで見えていな
かった「極微の世界」が開かれ、良質な材料の
開発や様々な学問研究に役立つばかりか、
青少年たちに科学する心を
持ってもらえるはずだと考えたんです。
(――電子顕微鏡、
科学技術の持つ可能性にいち早く気づかれた。)
〈栗原〉
そんな「極微の文化の建設」を掲げた彼の許に、
復興に燃える若い技術者10人が集結しました。
旧飛行場の廃品鉄材からよい材料を探し、
X線装置用電源を応用するなど
ありあわせの材料を最大限に利用し、
ほとんど手づくりで電子顕微鏡
第一号機「DA-1」を完成。これが注目される
一方、国内は復興途上でしたから、
早々に欧米で現地法人をつくって販売を始め、
1956年にフランスの原子力研究所に
納品することに成功します。
いま国内に工場が3つと支店が9つ、
海外に24の法人があるのですが、これがメイド
インジャパンのものづくりを貫く原点であり、
最初から世界を相手に市場を開拓したこと
(Born Global)が成長の基盤になってきたんです。
(――しかし、なぜそれほど早く
世界で評価を得られたのでしょうか。)
〈栗原〉
それは風戸が確固たる理念、
使命感を持っていたからでしょうね。
戦後しばらくは日本の大手メーカーも
電子顕微鏡を手掛けていたのですが、
量販できない小さな市場だからか
大半が撤退していきました。
一方当社には自分たちがやらねば
科学技術立国は支えられないという、
「私より公」を重んじる強い使命感があった。
ですから……
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●未知なる世界に飛び込む
●傾いていく会社の共通項
●弱みと強さを併せ呑む風土改革
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今回も最後までお読みくださり、
ありがとうございました。感謝!