初めて語られる戦後政治の舞台裏、田
中角栄、中曽根康弘らの人物像など、
小気味よいエピソードが満載。
辛口記者の熱血自伝。
人事部から呼び出しがかかり、「君
にはローマに行って貰う」と告げ
られた時には仰天した。
パリかアフリカのフランス語圏だと
ばかり思っていたからだ。
「私はイタリア語ができませんが」とい
うと、「君はフランス語やったんだろ。
似たようなものじゃないか。向う
に行って三ヵ月で覚えろ」と
いう。人事なんて乱暴なものなのだ。
実際現地で無理矢理取材させられて
みると、その一日の経験は内地で
一ヵ月訓練するのに匹敵するほどだ。
「ローマに行け」といわれてから十日後、
機上からコバルトブルーの地中海に浮
かぶクレタ島を眺めた時、私は長
年の夢にとうとうたどりつい
たという想いに感激して、
とめどなく涙が流れた。
イタリアはたかだか百二十年前(当時から
数えて)にガリバルディが半島の都市
国家を統一して、サボイ王家に
献上した新参の国家にすぎない。
戦後はそのサボイ王家を国民投票
で追放して共和制になった。
はるかにその前はスペインや
サラセンが支配していた。
国家はいわば新参者であって、トリノ
のくじは四百年の歴史を持ち、シエ
ナの競馬は五百年の歴史を持つ。
国家がなくても都市国家は
ずっと生き続けてきたのだ。
1968年五月、ローマから帰国して私は
平河クラブ(自民党)詰めを命ぜられ、
福田派(福田赳夫)を担当する
ことになった。
それはともかく駆け出しの頃は、派閥
記者として渡辺氏のようになりたい、
と彼を一つの目標にしたものである。
しかしローマでの経験
は私の目標を変えた。
派閥記者ではなく『ボルゲーゼ』に政治
評論、政策評論、ルポルタージュを書く
ような記者になろうと思うようになった。
立花隆氏が『文藝春秋』1974年十一月
号に「田中角栄研究─その金脈と人脈」
を書いた時、私は頬をパシッと殴
られたような気がした。
どれもこれも、噂に聞いていたような
話ばっかりだったが、それを一つ一
つ証拠を集めて積み上げて行く
立花手法には「参りました」
というほかなかった。
しかし、これをどこかの社の政治部でも
社会部でもとりあげて作業を進めたら、
必ず上層部から圧力がかかって
つぶされていただろう。
私のジュネーブでの課題の一つは
米ソ冷戦がどうなるかをウォッ
チすることであった。
瀬島龍三氏(当時、伊藤忠副社長)が
1976年暮、日本を発つさいに
開いてくれた送別会で、こ
う忠告してくれた。
「中立国には意外な情報が集まるから
面白いよ。小さな情報でも?深く
読む?ことを忘れないように。
それと国防省のその筋に
食い込むことだね」
瀬島氏は1967年の第三次中東戦争を「
一週間で終わる」と分析した人である。
世間では?瀬島機関?なるものが
存在すると信じられていた。
瀬島さんは?機関?といえるような特殊
な調査機関を持っているわけではなく、
一般情報を「深く読む」、双方の
軍事力と情勢を?深く読む?
ことで、「一週間」と
いう結論になった
のだと種明かしをしてくれた。
「深く読む」というのは問題意識をもって
丹念に読むとか、大局観をもって読めば、
小さな事実でも重大な情報となり
得る─ということだ。
‥‥の示唆は「何かありませんか」
式の取材をしていた私には天啓
のように脳天に響いた。
ジュネーブから帰国した翌1981年三月、
第二次臨時行政調査会(会長、土光
敏夫前経団連会長)いわゆる?
土光臨調?が発足した。
臨調は発足に当たってマスコミの
応援を得る必要を感じたのだろう。
新聞、通信各社にしかるべき人を
参与に出してくれるよう依頼した。
私は帰国早々、編集委員兼解説委員という
肩書きでブラブラしているように見えた
らしく、社長から呼び出されて「君
が行ってくれ」ということになった。
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今回も最後までお読みくださり、
ありがとうございました。感謝