奪うに益なく譲るに益あり.譲るに益あり奪うに益なしこれが天理 = 2-2 = 第1,146号

 もし町村のうちで一人この道をふむ者

があれば、人々はみんな分を越えた

過ちを悟るだろう。

 人々がみんなこの過ちを悟って、分度

を守ってよく譲れば、その町村は富み

栄えて平和になること疑いない。

 古語(大学)に「一家仁なれば一国

仁に興る。」といっているのは、

このことだ。

 よく心得なければならない。

 仁というものは人道の極致であるが、

儒者の説明はやたらにむずかしい

ばかりで、役に立たない。

 身ぢかなたとえを引けば、この

湯ぶねの湯のようなものだ。

 これを手で自分の方へかき寄せれば、

湯はこっちの方へ来るようだけれ

ども、みんな向うの法へ流れ

帰ってしまう。

 これを向うの方へ押してみれば、湯は

向うの方へ行くようだけれども、や

はりこっちの方へ流れて帰る。

 すこし押せば少し帰り、強く

押せば強く帰る。

 これが天理なのだ。

 仁といったり義といったりするのは、

向うへ押すときの名前であって、

手前にかき寄せれば不仁に

なり不義になるのだか

ら、気をつけねばならない。

 古語(論語、顔淵篇)に「己に克って

礼に復れば、天下仁に帰す。

仁をなす己による。

人によらんや。」

 とあるが、己というのは手が自分

の方へ向くときの名前だ。

 礼というのはこの手を相手の方へ

向けるときの名前だ。

 手を自分の方へ向けておいては、

仁を説いても義の講釈をして

も、何の役にも立たぬ。

 よく心得なければいけない。

 いったい、人のからだの

組立を見るがよい。

 人間の手は、自分の方へ向いて、自分の

ために便利にもできているが、また向

うの方へも向いて、向うへ押せる

ようにもできている。

 これが人道の元なのだ。

 鳥獣の手はこれと違って、ただ自分の

方へ向いて、自分に便利なよう

にしかできていない。

 だからして、人と生れたからには、

他人のために押す道がある。

 それを、わが身の方に手を向けて、自分

のために取ることばかり一生懸命で、

先の方に手を向けて他人のため

に押すことを忘れていたの

では、人であって人ではない。

 つまり鳥獣と同じことだ。

 なんと恥かしいことではないか。

 恥かしいばかりでなく、天理にたがう

ものだからついには滅亡する。

 だから私は常々、奪うに益なく譲るに

益あり、譲るに益あり奪うに益なし、

これが天理なのだと教えている。

 よくよくかみしめて、味わうがよい。

………………
原著者略歴
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福住正兄――ふくずみ・まさえ

1824-1892 江戸後期~明治時代

の農政家。二宮尊徳の門人。

文政7年相模に生まれる。箱根湯本の

旅館福住楼の養子となり、師の

報徳思想で家業を再興。

小田原藩校集成館で国学を教え、報徳社

を設立して報徳運動を指導した。

明治25年没。本姓は大沢。通称は九蔵。

号は蛙園、福翁。著作に『富国捷径』など。

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不朽の名著、やさしい現代語訳で甦る

『二宮翁夜話』

福住正兄・原著 佐々井典比古・訳注

定価=本体2,800円+税

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今回も最後までお読みくださり、

             ありがとうございました。感謝!

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