「家族にも極秘」を指示され、和光研究
所の一室で研究が始まってから約30年。
実際に本物の翼やエンジンを作った経
験は皆無というエンジニアたちが、
専門書を頼りに開発を始めた。
まさに手探りだった。
ホンダはなぜ空を目指したのか。
高い壁をどう乗り越えたのか。
本田宗一郎が生涯の夢として参入
を宣言してから半世紀。
二輪車メーカーとして出発したホンダが、
ジェット機参入という壮大な野望を
実現させた過程をひもとく。
青山の本社から「金食い虫」と陰口を
たたかれながらも、ついにホンダ
ジェットを創り上げた若き
エンジニアたちの苦闘を克明に描く。
ホンダは、松明を自分の手で
かかげていく企業である。
たとえ、小さな松明であろうと、自分で
作って自分たちでもって、みんなの方角
と違ったところが何か所かありながら
進んでいく、これがホンダである。
(藤沢武夫)
このころ、ホンダの経営の一切を預かって
いた藤沢武夫も、急成長してきたホンダ
をどう未来に残すか、その形を
作ろうと思索を深めていた。
昭和29年危機を乗り切った後、東京・
八重洲の本社とは別に銀座の越後屋
ビルの2階に20坪ほどの個人事
務所を借りて、普段はそちら
に引き寵もる生活を始めていた。
藤沢は日本の有力企業の有価証券報告書
を読みあさったが、愛読したのは第2次
世界大戦で英国を勝利に導いた首相、
ウィンストン・チャーチルの
回顧録だった。
そこから何を学んだのか。藤沢は著書
で、「せっぱ詰まった時、どうして
ゆとりのある考えになれるのだ
ろうか」といったことを例
に挙げているが、最大
の命題は宗一郎の
カリスマ性に
頼らずとも成長できる
ホンダの姿を描くことにあった。
藤沢は10年以上をかけて根
気強く実行に移していく。
最初に打ち出したのが研究所の独立と
いう世界の自動車メーカーでも
例のない試みだった。
研究所独立のヒントはチャーチルの回顧
録ではなく、夏目漱石の『吾輩は
猫である』にあった。
数カ月前のことだった。自宅で床につい
た藤野の頭に、それまで悶々と思い描
いていた新型ビジネスジェット機
の姿がパッと浮かんだ。
なぜか分からないが、妙にハッキリ
と飛行機の形が見えてくる。
<翼の下が無理なら上に付けてみたら
どうだろうか>こんな発想が浮かん
だのは、この時から2年前の
95年のことだった。
引っ越しで本棚を整理していた時に、
昔に買ったまま読んでいなかった
1冊の本を偶然手に取った。
なんとなく斜め読みするうちに、
ぐいぐいと引き込まれていった。
それは流体力学では古典
とも言える本だった。
藤野が飛行機設計のイロハをトルベから
学んだころは、すでにコンピューター
が不可欠になっていたが、プラン
トルが講義した1930年代は
全てが紙と鉛筆の計算によるものだ。
それがかえって新鮮に思えた。
優れた科学者に欠かせない要素として
よく語られるのが「セレンディ
ピティー」という言葉だ。
藤野の発見は古典本との偶然の出会い
によるものだが、航空エンジニアと
してのセレンディピティが導い
たものではないだろうか。
杉本貴司『ホンダジェット
誕生物語、大空に賭けた男たち』
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今回も最後までお読みくださり、
ありがとうございました。感謝