常に思いやりの気持ちで接し.仏性を磨き続け謙虚に生きる = 2-1 = 第 300 号

     この心これ仏なり

 「この世に、はたして仏はいるのか

どうか」という質問をよく受けます

が、仏とはいるのではなく、ある

ものだと思います。

 人知の発達していなかった昔や子供の頃

は、仏とは、ちょうどサンタクロ-ス

や雷様のように天上にいて、人間

の形をしていつも私達を見下ろ

しているような存在だと、

考えられてきましたが、

私にはとても信じられそうにありません。

 では、いったい仏とは、どういう

存在なのでしょうか。

 仏とは「この世にあるすべてのものを、

幸せに導く条件である」といって

よいのではないかと思います。

 それは過去から未来にわたって、生きて

いる人物や品物や機会を通して知られ

るものであり、釈尊は幸せになれ

る条件を満たして、仏(悟りの

境地)になった先達(せんだつ)

であり、私達もそうした条件を

満たせば仏になることができましょう。

 幸せになる条件とは、すべてのものが

ほほ笑めるように、お互いが自分の

この世でやるべき事に専念努力

し、他には思いやりの気持ちで接する、

 すなわち智慧と慈悲の働きを兼備して、

生きてゆくことをさしています。

 大乗仏教(だいじょうぶっきょう)では、

この世にあるすべてのものに仏に

なる性質(仏性)(ぶっしょう)

があるといっています。

 中国の学僧・湛然(たんねん)(782年寂)

は『天台本覚論(てんだいほんがくろん)』

に「草木国土悉皆成仏(そうもくこくど

しっかいじょうぶつ)」といって、こ

の世のあらゆる自然物も人間と同様

に、仏性があると説いています。

 「誰もが、もし仏性を持っているのなら、

特別に修行したり努力したりする必要は

ないのではないか」という疑問が、

当然湧いてきましょう。

 これに対して鎌倉時代の道元禅師(どうげん

ぜんじ)(曹洞宗の開祖・1253年寂)は、私

達は仏になろうとして修業をするの

ではない、と考えました。

 彼方にある悟りの境地(仏)を目指して

努力をすればするほど、そこに、た

どり着けない自分を自覚して苦し

むばかりですが、自分はすで

に仏の中にあり、仏の中

だから修行できると考えたのです。

 ”入我我入(にゅうががにゅう)„ と言って、

自分が仏の懐中(かいちゅう)に飛び込

めば、仏も自分の中に飛び込み、

自分が仏のようになって、自

由自在に生きられるというのです。

 こうした考え方は、一見傲慢なように

受け取れますが、そうではなく、私

達はみんな仏の中にあって、それ

ぞれが、その持ち分を生かす

共同存在の一員であるという、

 謙虚な生き方をすることにあり、もし、

自分が仏になったつもりで、わがもの

顔に振る舞うとしたら、それは野

狐禅(やこぜん)とか念仏ぼこり

と言って、退けられます。

   ( 長くなりましたので 第 301 号 に続きます )

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