十組の父と子がいれば、
十通りの向き合い方があります。それは優れた
業績を残した偉人にもいえることです。
ここでは、評論家・木原武一さんが語る
ピカソの才能を開花させた父親の姿を
紹介します。
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(木原)
フランスの劇作家モリエールは、
「学ばずしてすべてを知ることが、偉大な
芸術家の特徴の一つである」と言っているが、
人間の持つ能力は学習によって
後天的に習得されるものであり、
生まれつきの天才は存在しないと私は考える。
脳の発達する幼い頃に、どのような環境で、
どのような情報を得て、
どのように感性が育まれるかによって、
その人の能力はつくられる。
このことは、20世紀最大の画家
ピカソの生い立ちからも窺える。
ピカソは、言葉を覚える前に絵を覚えたと言われ
ている。スペインには長い渦巻きの形をした
チュロスというお菓子があるが、
幼いピカソは螺旋を描くこと
でチュロスを食べたいと意思表示した。
最初に口にしたのは
鉛筆を意味する「ピス」というスペイン語で、
「ピス」と言う度に母親は鉛筆を渡してくれ、
ピカソは飽きることなく絵を描き続けた。
学校へ上がってからも、ピカソは絵ばかり描い
ていた。教科書の余白は絵で埋め尽くされたが、
読み書き計算はまるでできず、アルファベット
の順序を覚えることすらできなかった。
ピカソがなぜそこまで
絵を描くことに夢中になったかといえば、
画家の父親がいつも絵筆を握っているのを
見ていたからである。幼い頃の
環境がピカソの才能を育んだのである。
彼の家族は、決して絵を描くことを禁じたり、
勉強を押しつけたりはしなかった。
父親は、息子ほどの画才があれば
必ず将来立派な画家になるだろうと期待を寄せ、
母親も、我が子は何をやっても
最高の能力を発揮するだろうと
その将来を信じて疑わなかった。
一家を挙げてピカソの才能を
称賛して止まなかったのである。
ピカソが10歳になると、父親は自分が
教師を務める美術学校に我が子を入れ、
学校でも自宅でも徹底的に絵の基礎を教え込んだ。
生涯に2万点もの作品を描いたピカソだが、
実は描いたデッサンの数も膨大であった。
父親のもとで徹底的に基礎を養ったからこそ、
ピカソはその才能を
大きく開花させることができたのである。
そうした父と子の関係は、
ピカソが13歳の時に転機を迎える。
ピカソが描いた鳩の絵を見て、我が子が自分
の力量を凌駕していることを悟った父は、
自分の絵筆を息子に譲り、以来絵を
描くことを一切やめてしまったのである。
(中略)
ピカソが幸せだったのは、
同じ絵の道を歩んでいた父親が、
我が子の才能を素直に認め、
いたずらに矯正しなかったことである。
教えることばかりが父親の役割ではない。
我が子の素質が開花するよう温かく見守ることも
父親の役割であり、愛情の表現であると私は思う。
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今回も最後までお読みくださり、
ありがとうございました。感謝!