当時の病院は別れなければならない恐怖の場所でした 第1,287号

病気と闘う子どもとその家族を支援する
活動に20年近く取り組み、現在は
小児緩和ケアを提供する「子どもホスピス」の
設立に邁進する田川尚登さん。

その活動の原点には、6歳で難病にかかった
娘さんの存在がありました。

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田川 尚登
(横浜こどもホスピスプロジェクト代表理事)
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──田川さんが、現在の活動に携わるようになった
  いきさつを教えてください。

もともとは私が40歳の時に、
娘を難病で亡くしたことがきっかけでした。

1997年の初夏、6歳になったばかりの次女・はるかが、
朝になると「頭が痛い!」と訴えるようになったんです。

小児科に連れて行くと、風邪だということで
薬を処方されたのですが、症状は改善しません。

違う病気かなと思い、別の小児科でも診てもらったのですが、
結果は同じで、「絶対に重い病気ではありません」
とも念を押されました。

──原因が分からなかった。

でも、同じ症状が続いたまま夏が終わろうとしていた頃、
ふとはるかが遊んでいる姿を見ると、
足を引きずっていることに気がついて……。

これは完全におかしいということで、総合病院で診てもらったら、
「すぐMRI(磁気共鳴画像)を撮りましょう」と。

それで、画像を診たお医者さんから
「脳幹に腫瘍があります。半年しか生きられません」と、
その場で余命を告げられたんです。

──その場で余命を……。

診断を受けたのは普通の総合病院でしたから、
入院するなら子ども専門の病院がよいでしょうと、
神奈川県立こども医療センターを紹介していただきました。

そして、こども医療センターの主治医の先生からも
「治療法はありません。これからは家族と
楽しい時間を過ごすことです」と説明されました。

最初から諦めろと言わんばかりに聞こえ、
私も妻も親として納得できず、
主治医の先生には冷たい印象を抱きました。

また、その当時、面会時間が午後3時から夜の7時までと
決められていて、時間になったら親は病室から出されてしまうんです。

──病に苦しむ我が子に、十分寄り添ってあげられなかった。

ええ。はるかが寂しがって泣いているのを振り切り、
病室を出ていく。そういう辛い毎日でした。

時計を見て、面会時間があと10分ほどになると、
はるかは会話が途切れないようにどんどん話し掛けてくるんです。
子どもは病気で苦しい状態の中でも、子どもらしさを失わない。
それが親としては余計に切なかったですね。

もちろん、いまではかなり環境はよくなっていますが、
当時の病院は私たちにとって、娘と泣きながら
別れなければならない恐怖の場所でしかありませんでした。


 『致知』2019年2月号

        特集「気韻生動P44

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 あなたの人間力を高める月刊誌『致知』
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 今回も最後までお読みくださり、

      ありがとうございました。感謝!

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