服部半蔵、風魔小太郎、真田十勇士……
豊臣秀吉も松尾芭蕉も「忍び」だった
――忍者はどこから来て、どこへ
消えたのか? 戦国時代に暗躍
し、徳川幕府の支配体制
を影で支えたインテリ
ジェンス組織「忍者」。
川中島の戦い、桶狭間の戦い、第一次
信長包囲網、第二次信長包囲網、
本能寺の変、関ヶ原の戦い、
関が原諜報戦、大坂城
内部崩壊工作―情報
機関、工作機関としての忍者、
そして被差別との関係など、誰も書け
なかった戦国時代、最大のタブー&
ミステリーに挑む本格的な歴史
読本系ムックです。
滝川一益が甲賀忍者の出だと言われて
いるように、信長の領国が近江まで
伸びていったときに、近江の情
報網を有効活用している。
甲賀は出入り自由の気風があった。
第二次天正伊賀の乱のとき、信長の名代
である織田信雄が織田勢にくだってきた
田屋某から献上された壺を滝川一益
に下賜したことから、少なくとも
一益が甲賀調略ならびに、伊賀
攻略に特別な論功があったとみるべきだ。
歴史は勝者のもので、敗者は
どうしても分が悪くなる。
典型が、今川義元。桶狭間ではちょっと
した油断で負けてしまったのは事実
だが、彼と今川家が情報戦におい
て秀でていたことは疑いない。
一つの例は、富士山の村山修験との
関係性。かれら修験者を義元が保護
し、その代わりに情報の提供を求めた。
これで各地の情報収集を
やっていたわけです。
有名な甲相駿三国同盟も今川家
(太源雪斎)の功績。義元の
先進性と雪斎の補佐は、
情報戦においてももっと評価されていい。
豊臣秀吉が信長軍の武将として頭角を
現すきっかけとなったのが、美濃
攻略戦における墨俣一夜城の構築だ。
秀吉のあだ名は「猿」だが、猿は
忍者の暗喩としてよく用いられる。
絶対的な信頼関係こそ、忍者の
最大の武器である。
毛利元就や毛利家は、琵琶法師
を情報源としていた。
この琵琶法師というのが実は重要。
やはり、忍者的なモノのルーツは修験
山伏、修験者、そういう人たち
が主になっている。
実は忍者が鉄砲に目を付けたのは、
忍者の特質と深くリンクしている。
また忍者のルーツである修験道は
冶金術とも深く結びついている。
修験者は鉱物開発を生業とするものが
多かったし、冶金の技術も持っていた。
忍者の三大秘伝書というのが、『萬川
集海』『忍秘伝』『正忍記』である。
『日本史の闇を支配した「忍者」の正体』
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今回も最後までお読みくださり、
ありがとうございました。感謝!