外務省の初代情報調査局長となり、駐サウジアラビア
大使、駐タイ大使を歴任し、気骨の外交官、外務省
きっての論客と謳われた岡崎久彦氏。
2014年10月に逝去した同氏は、これまで自らについて
語ることが少なかったが、生前に新聞社の取材を受け、
合計20時間余にわたって自身の生涯と戦後
日本の外交について語っていた。
その録音記録から明らかにされる、自らの外交官人生、
さらに同氏の知る情報分析の要諦と戦後外交の秘録を、
岡崎久彦最後の著書としてここに刊行!
情報分析の要諦と戦後外交の秘録!敗戦時、15歳の
少年は何を思ったのか?本格的に情勢分析にたずさわり
見えてきた真実とは?なぜ日米同盟なのか?
激動する世界にあって、翻弄されないわが国の
生き方を、自らの生涯とともに明かした日本への遺言!
私は江戸時代の人間を知っているわけです。
祖父岡崎邦輔の初陣は14歳のときの鳥羽伏見の
戦いです。
私は15歳の時に敗戦でしたから、私の受けた
教育は戦前教育で、戦前の人間といえます。
同じ意味で祖父は江戸時代に人格を形成した
江戸時代の人です。
桜田門外の変(1860)で井伊直弼大老が殺された
のは、祖父が、私が2・26事件を体験したのと同じ
くらいの年齢(幼稚園児)のころです。
その時に祖父は、親類の筆頭が、「天下の大老が
畳みの上で死ねなくなる時代が来た。
これからは大変な時代になる」と言ったのを
聞いたといいます。
私が通った旧制府立高校で最もよかった点は、先生に
後に東大教授になる若い人が多くいたことです。
一年生で国史、二年生のときに世界史の授業を受け
ました。
世界史の先生は、経済史学者の松田智雄氏でした。
一学期がギリシャ・ローマ、二学期がルネサンス
中心で、ダンデの『神曲』をずっと講義するなど、
ずいぶん高度なことを教えてくれました。
三学期になると爆撃がひどくなり学校は続かなく
なったが、私の教養はほとんどそのころ
培われたものです。
戦局の悪化で校庭ではサツマイモを植えていました。
何もないから、勉強するしかなかった。
学校の図書館は幸い爆撃されなかったので、
本は幾らでも読めました。
図書館には原書のオスカー・ワイルド全集があり、
何もない時代にこうした立派な本を読むのはとても
贅沢をしている気持ちがありました。
子供向けの『ハッピー・プリンス』
『セルフィッシュ・ジャイアント』、
それからオスカー・ワイルドの戯曲『サロメ』
も英語で読みました。
明治時代に出版された史書に『通俗二十一史』
というものがあります。
中国の王朝の宋が滅びるまでの歴史を、史書の
数から十八史といい、それに元、明、清を
加えて二十一史といいます。
これは、そうした史記や三国志などの歴史書を、
講談調にまとめた通俗的な本です。
この本には全部ルビが振ってあったので、私は
イロハを覚えたころからずっとこの本を
読んでいました。
戦後、家が貧乏になり、この本を売る
ことになりました。
母や兄弟もこの本が私の愛読書だとは
思っていませんでした。
私にとって戦後の一番悲しい記憶です。
後に、ハーバード大学に留学したとき、
燕京図書館で『通俗二十一史』が並んで
いるのを見つけました。
30年ぶりの再会に涙がでました。
1952年の外務省入省から10年間くらいは、
だいたい使われっぱなしで、日本での勤務の
ときは、毎日残業で疲れ切って何もできない。
欲求不満の発散をブリッジと麻雀で晴らして
いる、といった毎日でした。
勉強といえば、往復の電車で考古学、歴史、
伝記などに関する新書などを手当たり
次第に読んだくらいでした。
入省してからしばらくして、英国のケン
ブリッジ大学に留学しました。
ケンブリッジを居心地がいいと感じたのは、
私も一部の人からジェントルマンと認めて
もらったからだと思います。
当時もまだ、ジャパニーズ・ジェントルマン、
つまり侍は世界最高のジェントルマン
と見られていました。
あるとき、英国人学生と会う約束をしました。
約束の日はイギリス人なら普通外出
しないくらいの豪雨でした。
しかし、約束したからと思い傘を差して行った
ところ、相手も傘を差して待っていました。
「普通なら来ないけど、日本人は約束をも守ると
聞いているから来た」と言っていました。
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今回も最後までお読みくださり、ありがとう
ございました。 感謝!