1936年2月8日、神戸港に降り立った日独合作
映画の撮影隊一行に、一人の英国紳士風の
男が混じっていた。
その名はフリードリッヒ・ハック。
皆からドクター・ハックと呼ばれた人物である。
彼の職業はドイツの軍用飛行機や船舶、それらの
関連技術の輸入に携わる日本海軍および
陸軍のエージェント。
訪日の目的は、本来のビジネスに加えて、日独
合作映画の下打ち合わせ、さらにはヒトラーの
側近リッベントロップとベルリン日本陸軍
駐在武官・大島浩の間で進んでいた外交
交渉に関わる密命を帯びていた―。
ナチスと日本を結びつけた十字架を背負い、日米間
の終戦工作を担ったドイツ人スパイ。
女優・原節子誕生にも立ち会った、
その謎に満ちた生涯。
1887年、通称ドクター・ハックこと
フリードリッヒ・ハックは、ドイツ
のフライブルクで生まれた。
ハックは、優秀な成績でギムナジウムを卒業。
そして志望の国家経済学をスイスのジュネーブ、
ドイツのミュンヘン、ベルリンの各大学で学んだ。
やがて1910年、フライブルク大学経済学部で
経済学の博士号を取得した。
博士論文のテーマは、中国の通貨と
銀行制度についてだった。
フライブルグ大学でハックに経済学を教えた
のが、ゲヴェールニッツ教授である。
博士論文も彼の指導を受けた。
ハックに人生の転機が訪れたのは、
1912年の秋のことであった。
ゲヴェールニッツ教授から、満鉄の東亜経済
調査局への就職の誘いが来た。
満鉄が、ドイツ人専門家の協力で満州と近接
地域の経済や土地の慣習を調査し、その後の
経営に役立てる経済資料の収集と科学的
分析などの調査活動を開始した頃である。
ハックが東亜経済調査局で調査、情報収集と
その分析に携わったことは、のちのもう一つ
の顔となる敏腕の情報員としての方向を
きずく下地となったに違いない。
ゲヴェールニッツ教授がハックを推薦したのは、
国家経済学と植民地経営の研究に研鑽をつんだ
教え子の優れた学識と将来性を見込んで
いたからだった。
ハックは第一次世界大戦で日本の捕虜収容所
に入り、1920年釈放された。
その後、三菱系企業のドイツ視察団に同行した。
ちょうどその頃、日本人とドイツ人の間に入って
複雑な交渉も巧みにまとめ上げるハックの
優れた交渉力に目を付けた人物がいる。
ベルリンの日本海軍武官事務所に出入りして
いた兵器産業クルップ社の駐日代表
シンチンガーという男だった。
退役陸軍少佐のシンチンガーは、日本の軍需
産業に深く食い込んでおり、ドイツ政界
でも隠然たる勢力を持っていた。
彼はクルップ社の他にもハインケル航空機
会社の航空機の売込みにも辣腕を
ふるう武器商人だった。
「ベルリンに戻ったハックは、言ってみれば
武器商人だったわけだが、同時に諜報
機関の仕事をしていた。
かれにとってはこちらのほうがより重要だった」
とハックの親族はいっている。
1940年、スイスの首都ベルン。
高級ホテルでドイツ人と日本人が、時間が流れる
ままに静かに語り合う姿が見られた。
日本人の男の目的は、相手のドイツ人が信用
できる人物かどうか、情報のソースになり
うるか、話しながら密かに品定めを
することにあった。
日本人とは、ドイツに着任したベルリンの日本
大使館付海軍武官補佐官の藤村義朗少佐である。
この春、海軍大学校を首席で卒業して、軍令部
第三部ドイツ班の情報担当参謀からドイツ
への転勤を命じられていた。
ドイツ人の男は、ドクターハックだった。
海軍武官補としての藤村の最大の任務は、
欧州情勢をめぐる情報の収集だった。
藤村はこう語る。
「私のほうは、日本の秘密を話さない。
しかしハックはいろんな情報を全部
話してくれた。
彼の情報は、間違いなかった。
ナチスのことをよく知っている。中身も。
日本のことも知っている。
世界情勢のことを考えながら、ハックは
何でも話してくれた」
ハックは、ある日、酒井に初めてベルンのダレス
機関のことについてしゃべった。
「酒井さん、戦争というものは、スタート
すると終わりがある。
敵に連絡をつけておかないと、
終わりがこないよ。
しからざれば無条件降伏あるのみ。
幸い自分には、今、スイスにアメリカの
ダレス機関という大統領と直結して
いる情報部の知人がいるから、
連絡をとってもいい。
隙間を作っておかないと」
この終戦工作は実現しなかった。
歴史に”もし”‥‥は無いが‥
もし終戦工作が実現していたら、2発の
原爆投下はなかった??
中田整一
『ドクター・ハック:日本の運命を2度にぎった男』
の詳細,amazon購入はこちら↓
今回も最後までお読みくださり、ありがとう
ございました。感謝!