東京の中野区にある「愛児の家」は、戦後
しばらくして、無名の主婦・石綿さたよ
さんによって設立されました。
石綿さんは、戦争孤児たちを不憫に思い、
自宅に引き取って養育するように
なります。
娘の石綿裕さんにその頃の思い出を
語っていただきました。
───────「今日の注目の人」───
☆ 孤児たちの幸せのために生きる ☆
石綿 裕(「愛児の家」主任保育士)
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──多い時には、どのくらいの孤児たちが
いたのですか。
そうですね。100人以上が生活していた
でしょうか。運動会までやっていた
くらいですから。
──一軒家に100人ですか。 ええ(笑)。
夜寝る時なんか軍隊から払い下げの粗末な
お布団を一階と二階の広間にダーッと
並べるんです。あと小さい部屋
にもパラパラと。
ただ、私たちは三人姉妹でしたので、そこは
母が配慮してくれて、女中さんの部屋を
使わせてくれましたけどね。
母はその頃から幼いお子さんと一緒に
寝ていました。
いろいろな方から「よく我慢しましたね」
と言われますが、私はそれが当たり前
だと思っていました。
でも、母は大変だったことでしょう。
朝四時頃、誰にも気づかれないようにそっと起き
て、大きな鍋で皆の分の食事を作りました。
ボランティアで手伝ってくださる方もいました
が、それでも重労働です。
当時、駐留軍から配給になった安いトウモロコシ
の粉があって、母はそれに熱湯を注いでドロドロ
にして、ワカメか何かを入れて魚臭い代用醤油
を使って味つけをするんです。
子供たちはそれを「でれん」とか「どろん」とか
呼んでいて(笑)、決しておいしいとは言えま
せんでしたけど、それで何とかひもじさを
凌いでいました。
──心を開こうとしなかったり、集団生活に馴染め
なかったりする孤児もいたのではありませんか。
そりゃあいますよ。黙って出て行っちゃう
子もいました。
家のものを勝手に持ち出して上野に行って
売ってくる、なんていうのは日常茶飯事。
だけど、面白かったのは……
※石綿さんのお母さんは、なぜ孤児たちを
引き取って育てようと思うように
なったのでしょうか。
そこには士族だったお祖父さまの
教えがありました。
詳しくは最新号をお読みください。
『致知』2017年3月号
特集「艱難汝を玉にす」P50
今回も最後までお読みくださり、ありがとう
ございました。感謝!