日本全土を戦乱の渦に巻きこんだ戦国時代、
この動乱期に活躍した人物や江戸時代以降、講談
などで人気を博した人物には、その出自や実績が
怪しい者が数多くいて、はては実在するのか
疑わしい者も少なくない。
天下人から武将、剣豪、忍者まで、“戦国有名人”
の虚実を探る異色の戦国史。
戦国時代の歴史を眺めてみると、怪しげな人物が
いくらも見え隠れしている。
この本では、その種の人たちの話題を取り上げて
いる。
徳川家康は、三河の松平家の出で、当初、松平元康と
名乗っていたことは、歴史ファンならご存知の通りで
ある。
この「松平」という家は、相応の名家だったように
受け取られがちだが、それは家康が出世したからで、
もともとはさほどのものではなかった。
「忍び」とか「忍びの者」という呼び方は昔から
あったが、「忍者」という言葉は、戦前まで余り
使われなかった。
大人も子供も、「忍術使い」と呼ぶのが
普通だった。
伊賀というのは、今日でいえば三重県北西の山間部
で、小さいながら一国をなしている。
甲賀は、昔の近江の国、現在の滋賀県の南部の一郡
であるが、実は、伊賀とは背中合わせのような形に
なっている。
当然、相互の関係は深く、人的交流なども行われて
いた。
彼ら忍者に要求された最大の任務は、敵の情報を
探ってくることであり、さらには物を取る、人を暗殺
する、火を放つといったことであっただろう。
仮に戦場に出た場合でも、求められる働きは、
そうした延長線上にあった。
戦乱の世においては、どこの地域でも、そのような
活動への受容は多かった。
織田信長の娘婿だった蒲生氏郷も忍者を抱えていた。
氏郷は近江の出身だが地縁のある甲賀衆ではなく、
伊賀衆だったところが面白い。
忍者たちは、戦国時代を通じて用いられたが、
彼らの最後の活動の機会となったのは、
島原の乱であった。
一揆勢の立て篭もる原城攻撃に相当数の忍者が
投入されたのである。
山本勘助は、武田家関係の史料『甲陽軍艦』が
売り出した人物であったが、これは甲州流
軍学のテキストでもあった。
甲州流は、武田の家臣の子で徳川家康に仕えた
小幡景憲が起こしたものだが、軍学の走りの
ようなものである。
江戸時代の軍学の主流は、甲州流の系統が
押さえていた。
戦国時代は忍者と呼ばれた人達、現代においても
あらゆるところで表に出てこない裏方の人達が、
歴史を創っている。
面白可笑しく時には自分の命と引き換えにして。
己自身に向き合い、己に克つ。
鈴木眞哉
『戦国史の怪しい人たち。天下人から忍者まで』
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今回も最後までお読みくださり、ありがとう
ございました。 感謝!