敗戦による混乱と貧困から抜け出せないでいた
昭和20年代前半、GHQに占領された呉海軍工廠
は荒廃し、技師たちは無気力な日々を送って
いた。そんな中、造船界の異端児・真藤恒
は、「海運王」ラドウィックと手を組み、
当時としては画期的な手法で数々の
船舶を建造し、戦後復興の先駆け
となった。
船体は海底に沈もうとも、失われなかった
「大和」の技術遺産。戦後、日本の造船業は、
いかにその荒廃を生き抜き、のし上がって
いったのか。その軌跡のすべてを追う。
西島亮二技術大佐は、海軍始まって以来の
「世紀の大事業」と呼ばれた、「大和」の
実質的な建造責任者だった。
西島は、戦後、ジャーナリズムに対して沈黙
したが、一千枚を超える未公開の『回想記録』
を残していたことがわかった。
「大和」に関する文書や図面は、ほとんどが
焼却されたため、『回想記録』はきわめて
貴重な資料であった。
「大和」を建造した呉海軍工廠は、戦後、解体
される予定であった。しかし、巨大設備に目を
付けたアメリカ資本のNBCが、1950年、
大和を作り上げた工員や技術者も含めて
そっくり借り受けた。
すると、ただちに世界一のタンカーを次々に
建造していった。工数も他の半分だった。
未熟練の徴用工などが入ってこない時期の
太平洋戦争の直前に完成した「大和」は、
工員たちの水準がもっとも高かったころ
で、「呉工廠の最高傑作」であった。
「大和」に凝縮された英知や技術的ノウハウ
は極めて密度が高く、有形無形の遺産は、
きわめて大きかった。
技術分野における神髄ともいえる思考方法や
発想法、仕事の進め方や手法、あるいは勘所
の押さえ方や奥義といったものは、人格と
不可分であって、人を通して受け継がれ、
伝えられていくと認識している。
それは決して、データベースやマニュアル、
コンピュータによっては、十分に伝えること
はできない、との認識を20年の技術者と
しての体験からもち得ている。
西島の一番弟子といわれるのが、「造船界の
異端児」真藤恒(しんどうひさし)である。
真藤は、「海運王」ラドウィックと手を組み、
画期的な手法で数々の船舶を建造し、
戦後復興の先駆けとなった。
80代半ばになった真藤は、長年の経験と実績
を知る、あちこちの造船所からアドバイスを
頼まれ、各地を飛び回っていた。そして、
そんな視察について語るときの真藤の
表情がもっとも明るく、楽しそうに見えた。
前間 孝則 (著)『戦艦大和の遺産』
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今回も最後までお読みくださり、
ありがとうございました。感謝!