日本人の感覚「もののあわれ」は研ぎ澄まされ.この情緒は必ず光彩を放つ = 2-2 = 第 2,564 号

 アメリカ方式とは若者方式と言ってよい。

私が四十代半ばになって「若者はけしか

らん」と感じ始めたのは、英国を経て

アメリカに距離を置くようになった

時期と一致している。

 若者の判断力が未熟なのは自明のことと言える。

だからこそかつての私のようにアメリカに染ま

ったり、「一人の生命は地球より重い」とか

「親孝行は古い」などと言った妄言を

信ずるのである。

 10人の生命を救うために自己の命を犠牲にする

ことは尊い行為であること。名誉は生命と同様

の重さをもつこと。卑怯は死に値するほど

のものであること。親孝行は永遠の美徳

であること。年寄りはこのようなこと

を、自信をもって教えなくてはいけないと思う。

 合理性だけを重んずる社会がどんなものかは、

現在のアメリカを見れば大概見当がつく。伝

統国イギリスと同様、わが国には幸い、古

くからの良き「かたち」がある。私の

祖母は毎朝、仏壇の前で手を合わせ

たし、畑に行く途中の産土神社

では必ず立ち止まって合掌

した。私は今でも田舎に

帰ると、祖母と同じことをする。

 最も大切なものの多くは、合理的とは言えない

こと。古来、人類は年寄りと若者との対立に

よりバランスを取ってきたと思う。容赦

なく活を入れてよいのである。若者

に迎合する年寄りは、若者に対

する崇高な義務を果たさない

人間と私には思える。

 私の父は、「弱者を守るときだけは、暴力も

許される」と口癖のように言っていた。身を

挺して弱者を救うことは、力によろうと何

によろうと、「義を見てせざるは勇なき

なり」にある通り、気高い行為と教えられた。

 英国のケンブリッジ大学で、研究と教育に従事

していたことがある。カレッジでの晩餐では、

教官達は必ず黒ガウンをまとい、列を作っ

て学生達の起立して待つダイニングホー

ルに入場した。太鼓の音を合図に、

長老によるラテン語の祈りが

あり、その後で食事が始

まる。灯かりはろうそくしかない。

この仰々しい手続きと暗いテーブルでの

食事を、500年もやってきており、これを変え

ようとなどと言い出すものは誰一人いない。

 国語は、言語教育という要素にとどまらず、

すべての思考および情緒の基盤となる。

 あるとき我が家を訪れた米国人は、庭の虫の

音を耳にして、「あのノイズ(雑音)は何か」

と問うた。私の祖母は、虫の音を聞きながら、

「もう秋なんだねー」と言ってよく涙を浮

かべたものだった。「もののあわれ」を

かぎとる点でも、日本人の感覚は研ぎ

澄まされている。これら情緒は、親

から子へ、また和歌や俳句をはじ

めとする文学などを通して、日

本人の胸に継がれてきたものである。

国際化につれ、このような日本人の情緒は

必ず光彩を放つものである。世界に向か

い、日本人が真に誇れる特質といってよい

 小学校では何をおいても国語を叩き込み、それ

を基に母国の文化、伝統、情緒などを培い、そ

の国の人間としての根っこを形成すべきである。

この意味で小学校の国語は、一国の生命線と

いって過言ではない。わが国は古い伝統

国家として、英語への思慮ある距離

感覚を持つことが肝要ではなかろうか。

藤原 正彦  (著)『古風堂々数学者』

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 今回も最後までお読みくださり、

      ありがとうございました。感謝!

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