交渉事は相手に勢いがあるときは静観だ。力の
均衡が崩れたときこそ“出番”となる。
三木の策術にはまった格好で大野は数度の接触
の上、ついに保守合同へ向けて合意する。後日、
大野は自著の中で、こう述懐したものだった。
「私の話に対して、彼の答えは意外なほどまじめ
だった。じっと目をつぶり、三木さんの話を
聞いているうち、私も感激してしまった。
私の目の前にいる三木さんは、長い間、政敵
だった三木さんとはまったく別個のものを
感じさせた。“古ダヌキの三木”ではなく、
その心境は中秋の名月のように澄み
切っているのではないか。
戦後政治史の中で変幻自在の処世術を駆使、「稀代
の謀将」と名を残しているのがこの三木武吉である。
三木武吉は明治17年、香川県高松市生まれ。
首相の三木武夫とは親戚関係ではない。
♠明治39年、司法試験合格。翌年、弁護士業開業。
♣大正6年、衆議院議員に当選。以後連続6選。
昭和14年、報知新聞社長。
♦昭和17年、21年の総選挙にて当選したが追放。
昭和26年追放解除以来、保守合同の立役者
として活躍。昭和31年、死去。
三木も吉田茂も、悪型であるが、そのあり方も、
大衆に与える印象も全然違う。吉田はワンマン
で、憎々しいまでにその独裁ぶりを発揮した。
吉田は「毛なみ」はいい。三木は、弁護士資格
をとって政界に出たけれど、東京市の疑獄に
連座し、一度ならずクサイ飯を食ってい
る。いわば完全な野武士である。
三木の実力は何人も否定できない。いつまで
つづくかわからぬと思われた吉田を政権の
座からひきずりおろしたのは、主と
して三木の力である。
三木は、逆手とりの名人である。
彼は前田米蔵や大麻唯男などとともに名うて
の「寝業師」として通っていた。昔から
日本の政界には裏取引の達人が多い。
三木については、いろいろと伝説めいた
話が伝えられている。ある演説会場
で、聴衆の一人から、
「あなたは妾を5人お持ちだそうだが、
指導的地位にあるものとしてそれ
でいいのですか」
と質問を受けた。
これに対して彼は、
♥「5人というのは間違いで、実は6人です。
いずれも若気の誤りで仲良くなった女
たちですが、私を離れて生活がで
きないので、今も私がめんどう
を見ているのです。
この際、突き放して路頭に迷わしたほうが
いいか、それとも今後なお世話をしていっ
たほうがいいか、あなたのご指導
を願いたい」
と答えたところ、場内は拍手
で沸き立ったという。
めかけの数を多く修正することによって、
人の意表をつき、完全に逆の効果をもた
らしたのである。この逆手戦法は、
彼のもっとも得意とするところ
で、政治の面でもしばしば用いている。
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今回も最後までお読みくださり、
ありがとうございました。感謝!