小野寺信は、岩手県の前沢に
1897年に生まれた。
仙台陸軍幼年学校、中央幼年学校を経
て、1917年に陸軍士官学校に進んだ。
卒業後、連隊勤務となり、その部隊が
シベリア出兵の関係でロシア駐留となる。
そこで情報関係に入るきっかけ
となるロシア語に出会う。
ロシア語の教師は、旅団司令部の
タイピストの姉妹だった。
耳から口へのロシア語習得は効果が
あったようで、「一年間の勉強で
新聞が読め、文章が書ける
ようになった」。
語学のセンスは天性のものだった。
その後の陸軍大学校でも、ロシア語を
磨き、対ロシアのインテリジェンス・
オフィサーとして大成する
きっかけになる。
1930年に千葉の歩兵学校へ研究部主事
兼教官として転任すると、そこに
学問好きな上司がいた。
彼らの指示で小野寺はソ連軍の戦略・
戦術・戦法・編制を研究し、毎月
報告を雑誌の形でまとめた。
まるで学者の卵のような
生活である。
ここが人生のターニング
ポイントになった。
小野寺は、駐在武官としてどのように
情報網を作り、インテリジェンス
を得ていたのだろうか。
小野寺は、人種、国境を超えて、さま
ざまな国の人たちと協力して貴重な
情報活動に成功することになる。
彼は、回想録で「情報活動で最も重要な
要素の一つは、誠実な人間関係で結ば
れた仲間と助力者を得ること。
その点で、まことに幸運だった」と振り
返り、「年齢、国境、人種を超えて信念
で固く結ばれた人間関係は、この上も
なく尊いものと思う」と記している。
彼は、まず赴任した国の指導的な
インテリジェンス・オフィサー
と良好な信頼関係を築いた。
そして、彼らとどうすれば協力でき
るかを研究して、それが得られる
ベストの計画を練った。
最初は、金銭ずくではなく、協調や友
情に基づいて彼らと親しくなった。
時間をかけて良好な関係を
築いていったのである。
戦争を通じて最も良い情報源の
数々は、長年にわたって親し
くなった知人たちだった。
小野寺が入手した最良の情報のいくつ
かは、小国の参謀本部の情報士官と
の協力関係によるものだった。
情報とは「長く時間をかけて、広い範囲
の人たちとの間に『情(なさけ)』の
つながりを作っておく。これに
報いるかたちで返ってくるもの」
(作家・上前淳一郎)
情報とは人と人の心のつながりの
産物である。
岡部伸『消えたヤルタ密約緊急電、
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今回も最後までお読みくださり、
ありがとうございました。感謝!