戦後の高度成長シンボルとされる東京タワー。
この構造設計を手掛けたのが内藤多仲(たちゅう)
という建築家です。
『致知』8月号(最新号)では、あまり
世に知られていないその足跡や人柄と共に、
東京タワー建築にまつわる話が紹介されています。
語り部は次男の内藤多四郎さんです。
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1957年、東京タワーの設計者として白羽の矢が
立ちます。産経新聞社社長で、時の国会議員
だった前田久吉から、「エッフェル塔の320
メートルを凌ぐ世界一高い電波塔ができないか」
と要望があったのです。
地震と台風が多発し、敗戦から立ち直り切って
いない日本で、そんなことが可能なのか。
関係者の誰もが心配しましたが、父はそれを
「鉄塔造りは、私に課せられた宿縁」と快諾
するのです。
この時、父70歳。45年間務めた早稲田大学を
退職し、名誉教授となったばかりでした。
父はすぐさま基本設計に入り、同時に2人の教え
子に声をかけ、共に構想を練っていきます。
前例のないタワーであり、膨大な計算が必要
でした。
驚くべきことの一つは、それを電卓や
コンピュータではなく、恩師の佐野先生に
もらった小さな計算尺を使って
すべて自分の手で行っていった点です。
いまならこんな計算もすぐできると思われる
でしょう。しかし、電卓があればできるわけ
でもないのです。
東京タワーに求められる役割は、テレビ局が
増え電波が錯綜する時代に、関東一円に安定
したテレビ電波を流すこと。
そのためには前例のない高さの塔を建て、同時
に揺れを最低限に抑える必要がありました。
加えて、戦後間もない東京で鉄を大量に
揃えるのは大変難しかったのです。
これではタワーがつくれません。
そこで父が打ち出したのは、過去に地震や
台風を乗り切った塔の構造を踏まえ、
鉄をエッフェル塔の半分以下にする案でした。
教え子たちが驚く中、様々な揺れや風に
耐え得る部材の強度を割り出すべく
膨大な計算に入ります。
耐震構造理論を打ち立て、
知悉していた父だからできた提案でした。
(続きは本誌で)
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