戦後の高度成長は、満州国で行われていた統制
経済が元になっていた。
かつて満州における経済システムを一手に作り
上げた知の集団・満鉄調査部、官僚として赴いた
岸信介、椎名悦三郎、星野直樹、あるいは日産
コンツェルンの鮎川義介…彼らは戦後も国家建設の
夢を捨てがたく、日本経済のグランドデザインを
描き続けたのである。
満州国統治の内幕。
満州国での重要政策のすり合わせは、木曜会で
決定された。
木曜会とは、満州国での実質的な最高政策決定
機関だった。
出席者は、関東軍第四課高級参謀、主任参謀ら
経済内面指導を担当する軍関係者と満州国の実務
最高責任者である産業部、経済部、交通部、
民生部の各部長、総務庁企画処長そして
満州国の有力企業の代表者たち。
いわば満州国の経済界の最高責任者たちが
集まったのである。
むろん産業部次長だった岸信介も軍、官、
財をつなぐ重要人物として出席した。
岸はこうしたなか軍や財界とのネットワークを
広げ、一国の産業大臣にも似た作業を通じて
政治の世界へと足を踏み込んだのである。
岸はこうして、満州でいかんなくその辣腕
ぶりを振るっていった。
だが1939年10月、急遽、本国の商工省
から召還の達しが届く。
結局、岸の在満は3年間と短い期間となった。
しかし、満州国の産業建設という点では絶対
的な実績を残したのである。
また岸にとっても、満州での経験はかけがえ
のない意味を持つことになった。
自ら描いていた理想を、官僚として新しい
国家の下、現実に移すことができたのだから。
それに、志を同じくする多くの知己も得る
ことができた。
それは「満州人脈」として、後々まで貴重
な財産となった。
「満鉄を満鉄たらしめたものは何か」と聞か
れれば、著者は躊躇することなく、
「調査部」と答える。
ここでは、この調査部が、戦前戦中、それに
戦後の高度成長にいたるまでの、グランド
デザインともいえる基本プランを案出
したところだったことを、
見ていきたい。
1941年には、職員、雇員あわせて約2300
人が調査活動に従事していたほどで、調査機関
としては空前の規模に膨れ上がっていた。
調査の目的は、日本帝国を強大な国家に育て
あげることに置かれていた。
そして、ソ連と対抗し、それに打ち勝つ経済
システムの実現を、真正面から見据えて立案に
当ったのが、経済調査会の宮崎正義だった。
宮崎は、ソ連の計画経済を徹底的に研究し、
その長所と限界を調べ上げた。
そこで得た結論とは、「日本では、官僚
指導の下、国防的重工業などは国家統制
の下に置き、軽工業や消費財産業は
自由競争にすべきである」
というものだった。
このアイデアは、満州国の統制経済の骨格となり、
1930年代後半、満州国の産業政策の責任者
だった産業部次長・岸信介を頂点とする満州
人脈の手で具現化され、さらに岸の帰国
と東条内閣の商工大臣時代に日本へ
と拡大していったのである。
椎名悦三郎は、1933年、渡満。
岸の下で満州産業開発5ヵ年計画を担当。
戦後は政界に進出し、「岸派の台所奉行」
「兵站担当」としてこれまた岸の豊かだ
と称された政治資金集めの舞台裏を担当した。
彼は岸派のみならず満州人脈でも「幹事長
的役割」を演じている。
戦後、第二次岸内閣のときに官房長官を務め、
その後、通産大臣、外務大臣を経て、
自民党副総裁となった。
戦後の経済安定本部には満鉄出身者が多かった。
満鉄は当時、日本で一番大きい、いわばシンク
タンクであったわけなので、統制経済に
関するノウハウを持っていた。
情報も持っているということで、そういうところ
の人がかなり経済安定本部に参加していた。
次々と出てくる難問を解決できた人物のみが
満州人脈の戦後中枢のトップを
占め続けえたのだ。
つまり、満州人脈は、決して戦前を懐かしむ
だけの「仲良しクラブ」ではなかった
ということである。
岸信介は、激烈な競争を耐え、突破して
いったのだった。
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今回も最後までお読みくださり、ありがとう
ございました。 感謝!