残された記録や資料には残した人間の意図が必ずある = 3-3 = 第1,723号

 海軍省の後継組織である「二復」が行った

水面下の裁判対策。その知られざる実態の

一端を明らかにしたのが、反省会におけ

る豊田大佐の発言だった。実際には

一人の極刑者も出さなかった東京

裁判において、当初、極刑必至

と目されていた人物がいた

ことを打ち明けている。

 その人物とは、嶋田繁太郎海軍大将。開戦

時の海軍大臣にして、後に軍令部総長も兼

務した。真珠湾奇襲を決行した際の海軍

大臣であり、日米開戦にゴーサインを

出した国家首脳の一人であったから

である。「海軍の象徴」である

嶋田の極刑を回避することは、

「戦後の海軍」にとっては

極めて重要であり、裁判

対策の主眼もここに置

かれることになった。

 豊田大佐たちは、先行して開廷していた

ナチスドイツを裁くニュルンベルク

裁判を徹底的に研究していた。

 海軍において中央を守るために、現場指揮官

にのみ責任を押し付けた案件が多くあった。

 終戦から6年後の昭和26年。すべての海軍関係

者の戦犯裁判が終わった。東京裁判で極刑判決

を受けた海軍関係者はゼロだったが、一方で、

通例の戦争犯罪を裁いたBC級裁判ではおよ

そ200人の海軍将兵が絞首台へと消えた。

 裁判が終わっても、豊田大佐と戦犯裁判との

関わりは途切れることはなかった。豊田氏は、

その後、第二復員省から法務省に移り、嘱

託職員として、全国を回って戦犯裁判に

関わった被告や弁護人、遺族の聞き取

り調査を実施。その記録をまとめ、

関連資料の収集を続けた。

 18年かけて集め、綴った資料は5,000点以上。

その中には、組織を守るために行った裁判対

策や弁護研究の詳細、あるいは証拠隠蔽に

関わる内部資料など、第二復員省内部の

機密資料を含め、ありとあらゆる資料

が項目ごとにまとめられていた。

 「このままでは重要な歴史が欠落してし

まう」豊田大佐がそう思い、覚悟の上で

まとめたとしか考えられないほど、海

軍にとって都合の良いことも悪い

ことも包み隠さず残されていた。

 歴史資料は、識者によって加工された書籍

などの二次資料ではなく、原典に目を通す

ことで、初めて自分なりの発見がある。

 本当に大切なことは記録には残らないし残さ

ない。残された記録や資料には残した人間の

意図が必ずある。残っている資料だけに

捉われてはだめだ。   

 NHK取材班『日本海軍400時間の証言:

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 今回も最後までお読みくださり、

    ありがとうございました。感謝!

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