母が小走りでついてくるのが分かりました 第 2,893 号

若者よ、君たちが生きる今日という日は、
死んだ戦友たちが生きたかった未来だ――。

戦艦「大和(やまと)」の乗組員として
先の大戦を戦い抜き、その壮絶な戦争体験、
歴史の真実を伝え続けた八杉康夫さん。
惜しくも2020年に亡くなられた戦争の生き
証人の語りは、いまを生きる私たちへの
切実なメッセージとなって胸に迫ってきます。

─────────────────

(八杉)
戦艦「大和」――それは昭和16年の
12月16日(真珠湾攻撃の8日後)、
呉海軍工廠(海軍直轄の工場)で、
当時の最先端技術を結集し、
極秘裏に建造された世界最大の戦艦です。
海軍兵なら誰もが憧れ、
その乗組員になることは名誉中の名誉でした。

いったんは佐伯の防備隊に配置され落胆した
ものの、昭和20年の正月、分隊士から
「八杉、おまえに転勤命令がきている」と告げ
られました。


「おまえの行き先は、大和じゃ。
戦艦大和じゃぞ。よかったのぉ。
あの艦は絶対に沈まんぞ。
大和が沈む日は、日本が沈む時じゃ」
 
1月12日、いよいよ憧れの戦艦大和です。
まず驚いたのがその大きさでした
乗組員三千余名、全長263メートル、
甲板から艦橋の高さは24メートル。
甲板上には長さ21メートルの主砲をはじめ、
副砲や高角砲、対空機銃が所狭しと並んで
いました。


私が配置されたのは、艦橋のテッペン、
大和で一番高い所です。高さは
海面から30メートル以上あったでしょうか。
そこに当時の日本光学が命を
込めて造った測距儀がありました。
様々なレンズが組み合わされていて、
5万メートル以内に入ってきた敵機は
すべて測距できるよう造られていました。

私が大和に乗ってから、
戦況はますます悪化していきました。
3月下旬には米軍が沖縄に上陸、温存されて
いた大和にもいよいよ出撃の命が下りました。
弾薬を積むため広島の呉軍港に一時帰港した
3月25日、私たちは上陸を許されました。

この時、副長が
「今回の上陸ではしっかり英気を養って来い。
そして身の回りの整理を完璧に為してこい」
とおっしゃった。
普通の上陸では「完璧に」とは言いません。
沖縄特攻が「死への旅」であることを
意識せざるを得ませんでした。

港へ降りると、不思議なことに
母が私を待っていました。母は大和が呉に帰港
することを知るはずもないのですが、
私の上司にあたる分隊士が、
呉と福山は同じ広島県だからと
連絡してくださったのだと思います。
母は亡くなるまであの日のことには
触れませんでしたが、これは私の確信です。

その日は母と二人、
呉で一番いい旅館に泊まり、
美味しいものをたくさん食べました。
夜はこれで最後になると思うとなかなか
寝付けず、何度も母の寝顔を見ました。
翌朝、呉は季節外れの大雪でした。
いよいよここで母ともお別れ。玄関の
前に立ち、敬礼して必死の思いで言いました。

「母さん、17年間大変お世話になりました。
たぶん、今回の出撃では帰ってこられないと
思います。私の分まで長生きしてください」

母は深々と私にお辞儀をしました。踵を返すと
大股で海軍の敷地内へと歩き出しましたが、
母が小走りでついてくるのが分かりました。
それでも私は振り返りません。
未練が残るからです。
あと一歩で敷地に入ろうかという時、

「あんたぁ、元気でなぁ。
体に気をつけてなぁ、体に気をつけてなぁ」

という母の叫びが聞こえました。
思わず立ち止まりましたが、
それでも私は振り返りませんでした。

29日、いよいよ呉を出発しました。
一般的に……

※この続きはWEBchichiで公開中。
こちらからご覧ください 

致知出版社の人間力メルマガ

  今回も最後までお読みくださり、

      ありがとうございました。感謝!

スポンサードリンク

♥こちら噂の話題満載情報♥

ぜひ、いいね!を「ぽちっ」とお願いします

コメントをどうぞ

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です

日本語が含まれない投稿は無視されますのでご注意ください。(スパム対策)

このサイトはスパムを低減するために Akismet を使っています。コメントデータの処理方法の詳細はこちらをご覧ください