本日は、『小さな修養論5』に収録されて
いる一篇をご紹介します。
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精進する
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精進とは、励んで怠らないことである。
ひたむきに人格形成に励み努めること、
とも言える。
先日、タビオの越智直正会長より、
八十歳になったのを機に
自分の人生を支えた言葉を編集してみた、
と一冊の冊子をいただいた。
その冒頭に次の言葉が記されていた。
もろびとの思い知れかし己が身の
誕生の日は母苦難の日なりけり
『父母恩重経』の言葉である。
これは年初に出版した『人生心得帖』の
冒頭に記した言葉なので、
その符合に深く感ずるものがあった。
『人生心得帖』にも書いたことだが、
この言葉には思い出がある。
森信三先生九十三歳の誕生日に
花を贈ったことがある。
先生からお礼のハガキをいただいたが、
そこにはただこの言葉だけが記されていた。
深い内省を促されるおハガキであった。
母は十月十日お腹に子を宿し、
そして文字通り命懸けで子を産む。
このプロセスはまさに精進そのものである。
すべての命は母の懸命な精進によって
この世に誕生するのである。
こうも言える。
十月十日、母は子を受胎し成長させていくが、
その子を成長させるのは母の力ではない。
母の力を超えた大きな働きがあって、
子は成長していくのである。
生きるとは息をすることである。
息をするのをやめた時、人は死ぬ。
しかし、息は人間が意思し
努力してするわけではない。
人間を超えた大きな力が働いて
私たちは息をしている。
心臓が休みなく鼓動しているのも同じである。
人知人力の及ぶべくもない
大きな力の間断のない働き、
精進によって私たちの生がここにある。
即ち生命と精進は一体なのである。
絶えざる精進のないところに生命はない。
「釈迦の人生観は精進の二字に尽きる」
と言ったのは松原泰道師である。
百一歳まで求道精進に生きた人の言葉だけに
心に残っている。
事実、釈迦は八十歳で亡くなるまで、
熱砂の中を布教に歩いた。
『大般涅槃経』にこう記されている。
「阿難よ、私は老い衰えた。
齢すでに八十に及ぶ。
阿難よ、たとえば古い車は革紐の助けによって
やっと動くことができるが、
思うに、私の身は革紐の助けによって
やっと動いているようなものだ」
そういう状態の自分を廃車寸前になぞらえ
ながら、
「心ある人の法は老ゆることなし」
――心に真理を具えている人は身体は老いて
も、心が老いることはない、と言っている。
「この釈尊の言葉を受け、
私も一所懸命勉強している」
と言っていた百歳の泰道師の声が
いまも耳に残っている。
『遺教経』のこの言葉も味わい深い。
「汝等比丘、もし勤めて精進すれば、
則ち事として難き者なし。
この故に汝等当に勤めて精進すべし。
たとえば少水の常に流れて則ち能く石を
穿つが如し」
精進すれば必ず道を成就できる。
少ない水でも常に流れていれば
石に穴を開けることができるようなものだ、
というのである。
何度も読み返し、自分のものにしたい言葉
である。
そして、臨終に際し弟子たちに語った言葉。
「では比丘たちよ、私はお前たちに告げよう。
すべてのものは移りゆく。怠らず努めよ」
釈迦の人生はこの言葉に凝縮している。
母の精進によって生を得た私たちもまた、
精進をもって自分の人生を全うしたい。
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今回も最後までお読みくださり、
ありがとうございました。感謝!