古代、遠距離を移動する術を身に付けた
海洋民たちは、お互いの漁場の情報、さ
らには新しい漁業技術や造船技術、海
域ごとの潮や風の状態、それらに対
応する航海術のノウハウなどを、
オープンに交換しあっていた可能性が高い。
彼らの情報ネットワークと機動
力についてレベルは高い。
海人たちのオープンな世界は、古代
からずっと引き継がれてきた。
漁労民たちは、いつしか中国、朝鮮、日本
海域に広がる情報網と運輸交通手段
を独占するようになった。
やがて、「海洋ビジネスマン」
へと変身する。
古代商社マンの誕生である。
古代商社のビジネス拠点とは、いったい
どのようなところにあったのか。
古代商社の商談はどこで行われたのか。
吉野ヶ里遺跡には、「倉と市」
という区域がある。
倉庫や市場である。
まさにここは、古代の交易が行われた
現場であり、吉野ヶ里の住人と外部の
商人が接触した場所だと考える。
古代の海で活躍した海人集団を語る
とき、安曇一族のことをまず取り
上げなければならない。
安曇は「阿曇」とも書かれる。
長野の安曇野は、この氏族の一派
が住んだ土地とされる。
福岡市は現在でも、九州経済の圧倒的中心
都市だが、古代においても、この地が海
陸の物資の集散地として、経済活動
の拠点だったことが窺える。
この地を拠点に古代商社のオペレーション
を一手に握っていたのが、安曇と名乗る
海人集団だったと思われる。
安曇のライバル商社が、宗像一族である。
朝鮮半島への航海安全の神の島に仕立て
上げられた沖ノ島には、宗像氏の祭神
である宗像大社奥津宮が存在する。
海人集団、宗像一族は、東から北に大き
く伸びる日本列島の地形を、海岸線を
伝いながら把握していく。
大和政権のニーズに即応する必要のある
宗像一族は、有明海の拠点確立に
どう対処したのか。
宋への朝貢のためのロジスティクスを確保
することが、宗像の使命であった。
古代商社の海外調達力は、朝鮮半島に開か
れた交易市場での交渉力にかかっていた。
大陸側との交易を対等・円滑に進める
ためには、豊富で多彩な交換商品
を用意しなくてはならない。
交渉の前面に立つ古代商社には、
その機能が求められ、それを
支える財力が必要だった。
海人たちのエネルギーは、歴史を
動かす原動力になった。
あるときは水軍、あるときは商船、そし
てあるときは海賊として暴れまわった。
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今回も最後までお読みくださり、
ありがとうございました。感謝!