「闇社会の帝王」と言われた戦後最大の
フィクサー・許永中の自叙伝。
イトマン事件、石橋産業事件で逮捕される
など、数多くの経済事件でその名が取り
沙汰されてきた許が、自身の半生
を初めて綴った。
日本と韓国を股にかけ、極道から巨大商社、
銀行、テレビ局まで、縦横無尽に駆け
抜けた許は、そのとき何と戦い、
何を願っていたのか。
大阪で過ごした幼少期の原風景、日本が狂乱
したバブル時代に自ら関わった事件の表と裏、
政財界から暴力団までを貫くその人脈、2年
間の逃走生活、そして日韓の未来への
願い……その全てをここに明かす。
「闇社会の帝王」等々いつの間にか数多の
枕詞が作られ、それらの言葉を伴って私が
語られるようになって久しい。在日同胞
の中には、これに嫌悪感を抱く人もあるだろう。
しかし、戦後という時代に在日の歴史を重ね
て俯瞰したときに、その環境ゆえ表と裏の狭
間で生きざるを得なかった人々が確かにいた。
私という物語の中には多くの在日同胞が登場
し、そして消えていく。その全てに、貧困
と差別が宿痾として絡み合う。
「今にみていろぼくだって
見上げるほどの大木になってみせずに
おくものか」
→八波則吉作詞「しいの木とかしのみ」より
→子供の頃の教科書に載っていた。
気が付けばこの言葉が心の中に焼き付き、
私の行動の原点になっていた。
それは親孝行への想いにも繋がっていた。
極貧のスラムの陽の射さぬ長屋ではなく、
朝日があたり、障子を開ければ縁側の
向こうに庭があり、小鳥の声が
聞こえる部屋で寝起きする。
そんな穏やかな生活を、両親に送ら
せてあげたかった。
その思いは後年、飛び込んだ川から大阪湾、
そして大海へと繋がるように、海峡を
越えて活動する原動力にもなった。
激動の1960年代半ば。この頃の私は大学に
籍はあったものの、麻雀とパチンコと
ケンカに明け暮れていた。
高校時代から近畿大学、大阪商業大学など、
ケンカ自慢の連中を相手にしてきたので、
大学の不良たちは入学早々に制圧した。
相手が極道であろうと関係ない。
大阪梅田の東通り商店街界隈を縄張りに、
思うがまま、発熱し続ける身体を手当
たり次第にぶつけて生きていた頃だった。
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今回も最後までお読みくださり、
ありがとうございました。感謝!